見出し画像

正しさの行方

「正しさなんて人によって違う」

頭では分かっていても、時に戸惑うことがある.

SNS時代のいま、多くの人が主張する。それ自体は悪くないかもしれない。

ただ、見たくもない人のそれぞれの正しさの主張に辟易する。見なければいいのだが目に入ってくる煩わしさに吐き気がする。

そしてそれをここに吐き出そうとしている私も、結局私の正しさを誰かに向けて主張したいのだと思う。

インターネットには一体幾つの吐瀉物のが散らかされているのだろうか。

正しさとはルールであり、守るべきもの

私は規則とか、ルールとか言われるものに縛られやすい。いわゆる「常識」という曖昧なやつも。

そしてルールを守ることは最低限の正しさだと信じている。

誰もが快適に過ごせるように(その時は)考えられた規則なのだから。

違うと思えば改正すればいい。

ルールに縛られ、それを正しさとする私をつまらない人間だと思うこともなくはない。

育ってきた環境にもあるだろう。

私の両親に特段強い教育方針はなかったけれど、「義務と権利」について常に比重をおいて解かれてきた。おそらく親が持っていた唯一の信条だと思う。

義務を果たさぬものに権利などない。逆も然り。義務を果たしたものは権利を得る。

義務とは何か、それは己の立場で社会的にやるべきことをやること。

言葉は大袈裟だけど、学生ならば勉強、手伝い。社会人なら仕事、子育て、家事くらいのもの。

あとは社会的に間違えないこと。人に迷惑をかけない、法令遵守、くらいだろうか。意外とゆるい義務。

だが、私にとって義務を守ることは自分に課したルールであり、守るべきものであり、それを守ってこその権利主張、自由があると思っている。

世の中には私とは違うルールの人がいる

頭では分かっている。

「常識なんて関係ない」「常識を打ち破れ」威勢の良い言葉が見出しを飾り、勢い溢れるいい意味での非常識さで社会をのし上がっていく人たちがいることを。

そういう人からすると、日本人らしい常識や同調圧力などつまらないものだろう。そしてそこから離れるからこそ、イノベーションも生まれる。

そういう現場は何度も見てきたし、自分にない彼らの勢いに尊敬も畏怖も抱いている。

彼らにとって私が縛られる義務はつまらないと言われるものであろうという自覚はしている。

だがしかし、世の中には中途半端な常識外れもいる。それは迷惑だ。やるなら徹底的にやってくれ、中途半端な己の非常識をルール違反の言い訳に使うんじゃねぇ。それはわがままだ。

そう、都合の良いところだけ切り取って大袈裟にいうわがまま。

わがままと正しさ

結局、わがままか常識に争うかの違いは、「社会にとって」有益かどうかだ。

己の満足のために常識を否定しても、ただのわがままだ。

私も話の風呂敷を広げすぎた。

もともとなんでこんなことに憤っているかというと、最近周囲にあまりにも小さなわがままを「常識に囚われない自分」「そんな自分もいいよね」と言いまくる奴らが残念ながら大勢いるからだ。

だが人には大きな迷惑だ。そして積み重なると信用を失う。そう、私は私の正しさの唯一のルール、「ルールを守る」ということさえしないやつは大嫌いだし、信用しない。

強引にまとめてみる

話を広げすぎてしまった感が否めない。まとまりがつかない(笑)

結論から言うと、いろんな奴がいて、いろんな奴が吐き出す吐瀉物にいちいち反応する自分がとても嫌だ。

そして、挙げ句の果てには私もこのインターネットの海に吐瀉することになる。

私の考える正しさなんて、私だけのルールであり、誰かに強要するものでもない。

だからどうか私にも誰かの正しさを向けないで欲しい。

本当はこれら全部を「どうでもいい」とゴミ箱に丸めて捨てたいけれど。

そういうことができるようになってきたと思っていたけど、まだまだ生きづらさをわざわざ拾って生きてしまう自分への嫌気に酔ってしまいそうだ。

だが、唯一、誰にも知られずそっとこうして書き出すことで溜飲が下がる思いはある。

インターネットが拾ってきた吐瀉をインターネットに吐き散らかす。

同じ穴のムジナ、所詮それが私。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?