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旅の終わり

朝晩の空気がひんやりと肌を刺し始めた、
ある秋の日、母の旅が終わった。

施設への入居がかなってから、たった2カ月半のことだった。

入居後は、ほぼ毎日のように、ケアマネージャーさんが
ホームでの母の生活を、電話で知らせてくれていた。

「今日は、たくさんご飯を召し上がられましたよ」

「ジュースがおいしいって、おかわりされました」

また、ある時は

「昨日は、夕方に『ご飯を炊かなくちゃ』
とおっしゃるので
『私が代わりに炊きますね、2合ぐらいですか?』
と声をおかけしたら
『2合じゃ足りないわねえ』って……。
『じゃ、3合にしましょうか』というと
『それなら大丈夫』と、ほめていただきました」

そんなやり取りをしながら、
日々過ごしている母の様子を
聞かせてもらう日もあった。

「あぁ、本当は私が、そんな話し相手に
なってあげたかったのだ」と
安堵と寂しさ、そして申し訳なさで
泣きそうになったものだ。

横たわっている時間が長くなるにつれ
大好きな童謡のCDが流れる部屋で、
ゆったりとした時間の流れに身を任せ
心穏やかに過ごせていた。

ホームでお世話になった方々には
ただただ、感謝以外に言葉が見つからない。


そんな母の体調に変化が見え始めたのは
入居から1カ月が過ぎた頃だった。

発熱、食欲不振、さらに
血圧の上昇と下降を繰り返し、
車椅子で食堂へ移動することも
できなくなっていった。

口にしたがるのはカステラだけ。

介護食の高カロリージュースで
かろうじて摂取する日が続くようになった。

母は「終末期」を迎えようとしていたのだ。

看取りをどうするか。
死出の旅路の衣装の用意は。
緊急の連絡が取れる体制を整えて。

頭では理解できていても
心がついていけない。

人の命には限界があるとわかっていても
「自分の親だけは死なない」と、
心のどこかで思っているのが人間なのだろう。

「お母様がお好きだった、お着物はおありですか?」

尋ねられて、自宅を探してみたが
母の着物は一枚も見当たらなかった。

そういえば、いつだったか
着物の買取を謳う業者が来ていたっけ。

処分してしまったのかもしれない。

妹と相談し、母が私に作ってくれた小紋を選んだ。

パープル地にオレンジとピンクの小花模様が
美しい、華やかな一枚。

明るい色の服しか着たがらなかった母にぴったりだ。

金色の帯を添え、ホームへ運びながら
「そんなに急いで届けなくていいよね」
と、なんの根拠もなく、そして
誰に言うともなく、私は独り言ちていた。

それから1カ月。
最期の時は、突然訪れた。

明け方、目を覚まし、何気なく画面を
のぞいた携帯電話。

そこにはホームから、夜中にかけられた
着信履歴が何通も残されていた。

「しまった!」

その夜に限って、携帯電話は消音設定のまま。
父も妹も、手元に電話を置いて休んでいなかった。

一生の後悔を私の胸に残し
母は一人で逝ってしまったのだ。

駆け付けたホームのベッドの上で
私と妹が選んだ小紋に身を包み
母は静かに横たわっていた。

そこに、眉間にしわを寄せた
終末期の苦し気な母はいなかった。

あったのは、元気だった頃の母の寝顔。
うっすらと紅を引いた
美しく、穏やかな顔だった。


「なんと、よくお似合いの着物でしょう。
誰が選ばれたお衣装ですか?」

告別式を前に、母の元へ足を運ばれた
お坊様が、私たちに声をかけてくださった。

「あ、ありがとうございます。」

妹と顔を見合わせ、私たちは
心の中でガッツポーズ!

よかった、やっぱりあの小紋を選んで。

いちばんの大役を果たし終えた気分だった。

小さな骨になってしまった母を胸に抱き、
葬儀場を後にしながら、ふと見上げると
雲一つない、真っ青な秋晴れの空が広がっていた。

「きっと、似合うとほめられて
何より喜んでいるよね、お母さん」

妹の泣き笑った顔が、今も目の奥に残る。


葬儀から数日後、押し入れの奥にあった
衣装ケースから、母の着物が出てきた。

「なんだ、こんなところにしまってたのか」

お母さん、もしかして
自分が持っていた着物じゃなくて、私に作ってくれた
あの小紋を着せてほしかったの?

私たちが、母の着物を見つけられなかったのは
母の最期のお願いだったのかもしれない。

一人で逝かせてしまった後悔は
いつまでも消えないけれど
「最後の最後に、ほんの少し親孝行ができた?」

ゆらりと揺れた、ろうそくの小さな炎。
写真の中には、満面の笑みを浮かべる母がいた。(終)


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