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「本日発売」の雑誌を「本日」読めないまちに暮らすこと

「すみません。今日発売の雑誌は、まだ棚に並んでいませんか?」

指折り数えて待っていた雑誌の発売日。
朝一番に、地元の書店が開くのを待って駆け込んだ。いつもはインターネットで予約をするのだが、久しぶりに店頭で買おうと思ったのだ。
どんどん消えていくまちの書店を、たとえわずかでも応援したいという気持ちだった。

ところが、いくら探してもお目当ての雑誌が見当たらない。
レジへ行き、店員さんに尋ねてみると、想定外の返事が返ってきた。

「あ~、一日遅れるから明日ですね」

遅れる? 入荷が? 一日も? 明日まで待て? どういうこと?
店員の言葉に一瞬、絶句……。

今日発売の雑誌が、今日読めないの!? 

レジ前で呆然と立ち尽くした数秒後、我に返って「あ……、明日……。わかりました……」と、すごすごと店を後にした。

もしかしたらと一縷の望みを胸に、もう一軒だけある地元の書店へも足を延ばしてみたけれど、朝早すぎたのか開店さえしていない。
往生際悪く、夕方も覗いてみたけれど、やっぱり書棚は空っぽだった。

頭の中は、すっかりその雑誌の読書モード。
このまま明日まで、どうやって待てというのだ。

SNSでは、雑誌の中身が投稿されていたり、WEB版の記事がアップされ始めていたりして、「読みたい!  いや、本で読む!  でも読みたい!」とグルグル……グルグル……。

結局、翌朝まで我慢して、ふたたび書店へ駆け込み、念願の雑誌を手にはできた。手にはできたが、なんだか釈然としない。

「なんで、翌日なの!?」

と思っていたら、ちゃんと雑誌のお知らせ欄に記載されているではないか……『本日発売(首都圏基準)』……そう「首都圏基準」と。

そして、思い出した。子どもの頃から、欲しい本がすぐに手に入ったためしがなかったことを。


中学生になって自転車で遠出ができるようになるまで、市内の書店へ出て行くだけでも一仕事だった。数時間に1便あるかないかという田舎の市バスを待ち、揺られること30分。そこから何十分も歩いて書店に向かうのだ。

ようやっと店にたどり着き、意気揚々と「この本をください」と書名を伝えても「それは、うちには置いてないね」としか返事は来ない。

「でも、取り寄せできますよ」

「置いてない」の言葉の後には、妙に明るい店員のその一言がいつも続くのだけれど、「だから、今買えなくても、そんなに大したことじゃないよね」と言われているように聞こえ、余計に悲しくなった。

違うの。今、読みたいの。今日、買って帰りたいの。
どうして、わかってくれないの?

「今日、本を読めると思ったことが、間違いだったんだ」
行き場をなくした「読みたい」気持ちを、宙ぶらりんにぶら下げたまま、帰路につくことが当たり前になっていた。

幼かった私にとって「本を買う」という行動は、大きく膨らんだ風船が、一瞬にしてしぼんでしまう速さと、小さく小さくなっていくサイズ感、ふたつのギャップを、なんとか収める心の置き場所を探すことだった気がする。

「今日こそ、買えるかもしれない」という小さな期待と、「どうせ無理」というあきらめのせめぎ合いは、いつだって「ほら、やっぱりね」という落胆に軍配が上がり続けていた。

しかもそれは、本を買うことだけじゃなかった。

例えば、靴を買うこともそう。
人よりちょっと大き目の足は、サイズが合うヒールを見つけることがなかなか大変だった。

広いフロアを埋め尽くす、たくさんの靴が並んだ百貨店の売場。
定員さんは「サイズをお探ししますよ」と、やさしく声をかけてくれる。

これだけの数があれば、気に入ったデザインの1足や2足はあるんじゃないの?と淡い期待を抱いてみるのだけれど、シンデレラのようにはいかない。
やっぱり足に合うサイズがなくて「ほら、やっぱりね」と、いつだってあきらめの勝利で終わるのだった。

この「どうせ無理」と「ほら、やっぱりね」は、いつの間にか私の生き方そのものもむしばんでいた。

大学受験や就職活動でもそうだった。
心の隅っこで「どうせ無理よね」と、半ばあきらめながら第一志望に挑戦し、思うような結果にならなくて「ほら、やっぱりね」と自分をなだめた。

フリーランスになり、一時は成功への道を歩み始めた手ごたえを感じても、ふと心によぎるのは「私には、どうせ無理」という自分不信。案の定、仕事にも売上にも「ほら、やっぱりね」と落胆させられ、底辺を這いずり回ってきた。

そんな、なんとも情けないライター人生も、引き際を考え始める年齢に近づいてきたある日。ある夢への最後の挑戦と決め、思い切って申し込んだ講座の中で、取り組んだ原稿があった。

数十人の受講生の原稿の中で1本だけ、ある雑誌の名前の元、世の中に発信されるのだ。

しかし、スタート時の意気込みは、時間が経つにつれ、いつもの「どうせ無理」に押し切られ始めた。原稿の提出を前に、最後の力を振り絞る段になって、どうせ「ほら、やっぱりね」って、いつもの結果になるんだろうなと……。

「もういいかな、これくらいで」

書き上がったことにして、提出する準備をしようとした、まさにその時だったのだ。一日遅れの雑誌に遭遇し、過去に思いを巡らせたのは。

そして、あることに思い至った。

ちょっと待って。
「どうせ無理」とあきらめ半分で始めるクセは、挑戦することから逃げる理由づけに過ぎなかったのではないか。
「ほら、やっぱりね」と斜に構えて終わらせてきたのは、とことん努力することを避けたかった自分への、言い訳でしかなかったんだ。

高みへ挑戦しても、努力を重ねても、もし望む結果にたどり着かなかったら、あのやるせない気持ちの収め場所を探してさまよう悲しさを、また味わわなくてはいけないから。

電源を落としたパソコンを再び立ち上げ、もう一度、原稿と向き合った。何日も、何日も。そしてようやく「これでダメなら仕方がない」と納得し、送信ボタンを押して、私の挑戦は一区切りがついた。

もしかすると、いつものように「ほら、やっぱりね」と思う結果になるかもしれない。でも、今回は違う。その「結果」が、挑戦や努力への答えのすべてではないことに気付けたから。

最後に私が手にする答えは、もう「ほら、やっぱりね」じゃない。
こう声をかけるんだ。

「よくやった、私!」 

(終)


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