人生の歩き方
「梅の花、うちの木にも咲いてるよ」
何年前のことだったか。
ある日の朝、仕事に向かう準備をしながら
「事務所の近所の公園では、もう咲き始めてたよ」と
梅の開花状況を報告する私に、母が半ばあきれて
返事を返してきたことがあった。
「え!?」と縁側まで走ってカーテンを開け、
ガラス障子越しに庭をのぞいてみると
確かに前栽の梅の木が、淡いピンクの小さな花を
あちらこちらにつけている。
「うわぁ、玄関を開けたら目の前が梅の木なのに。
全然気づいてなかった」
どれだけ視野が狭くなっていたんだろうと、反省しながら自嘲した。
〆切との追いかけっこを繰り返す職業ゆえ
時間に追われる日常が当たり前になっていることに
寂しさとやるせなさを感じながら、わが身を振り返ってみた。
「行ってきます」の声掛けもそこそこに
玄関の引き戸を開ける時には、
頭の中でアポイント時間の確認をしていたり
書きかけの原稿のスケジュールを思い出していたりする。
一分でも無駄にすることなく事務所に入り
今日こなすべきことの準備をしなくてはと
忙しない一日をスタートさせることがルーティン。
目の前の世界は“風景”でしかなく、目には入るものの
「見て」はいなかったことに改めて気が付き、愕然とした。
私は、何をそんなに生き急いでいるんだろう。
この朝のできごとをきっかけに、前栽の梅の花は
心の余裕のバロメーターになった。
「行ってきます」とゆっくり挨拶をして、丁寧に玄関を開ける。
顔を上げ、梅の木をしっかりと目に捉えたら花を愛で
ひとつ息を吐いて引き戸を閉め、しっかりと一歩目を踏み出す。
梅が咲き終われば、花が好きだった母が植えた
水仙やチューリップ、芝桜に菖蒲、紫陽花、鳴子ユリが、
猫の額ほどの小さな庭や畑で、季節ごとに花をつけては
「生き急いでいない?」と、メッセージを送ってくれるようになった。
そんな梅の木は、今年も濃いピンク色をしたつぼみを、
たくさんつけている。
毎朝、家を出るたびに、花が開き始めていないか確かめている私は、
少しくらいは、地に足をつけて生きられているだろうか。
「私、大丈夫かな?」
時折、声に出してつぶやいてみる。
あの朝、呆れながら、ちょっと心配そうだった母からの返事は
もう二度と返ってくることはないけれど。 (終)
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参加させていただきました。機会をいただきありがとうございます。
#シロクマ文芸部
#梅の花