2月24日「凍解」

 セクハラ関連の本を仕事で読んでいて、陰鬱とした気持ちになる。世間の耳目を浴びる大事件、ではなく、あまりにありふれた日常だからだ。被害と呼んでいいのかもためらう、あのとき言われた、されたときの、いやな気持ち。こんなのはよくあることだと押し殺して、なんてことないと世間慣れしたしぐさを発動させてしまった自分に対する違和感。たくさん、たくさん、思いだして泣きたくなった。

 某アイドルが未成年に手を出して引退に追いこまれたとき、ほかでもない女性が、彼のファンが、被害者の女性をバッシングした。男の家にのこのこあがるなんておかしい、そのつもりだったんだろう、隙をみせた彼女にも非があると言うひともいた。でも思う。未成年の女の子が自分の父親にも近い歳の男性を無邪気に信頼できない社会って、なんだろう。高校生の女の子が子どもでいられず女であることを自覚し続けていなきゃいけないなんて、それなんて地獄? 仮に彼女が、仕事のために何かを仕掛けたんだとしても、だ。それを拒み、適切に叱るのが大人の対応じゃないだろうか。本では、大人になってさえ「まさかその立場にある人が」「分別のあるはずの歳の男性が」と被害に遭った人が体験を語っていた。人を信じることが落ち度になるなんて、そんなのある?

 似たような経験は、私にもある。「好き」でもないのにそんなことをされてしまう、そんなふうに扱ってもいいと思われたことに途方もなく傷ついた。でも、酔っ払ったわたしが悪いのだと思った。男なんてそんなもんだと思うようにもなった。それは、ふつうに誠実な男性たちに失礼なことだと気づかずに。

 かわいげのない女はきらわれる。仕事で成功したいならプライベートの幸せは諦めなきゃいけない。男は立てないといけないし、料理上手にならないといけない。そういう、セクハラの温床を他でもない自分が育てていたことに気づいたのは30代になってからだ。いやだと言えばよかった。言ってよかったんだと、本を読みながら傷つき、同時に癒やされる。

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