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エッセイはじめました <しま神さま>

 私は神様や仏様というものがよくわからない。無宗教なのだ。死んだらお葬式とかどうしよう。とりあえず骨は海に捨ててほしいなあ。


 そんな私なのだが、イエスキリストとかではない神さまは信じている。信じているというか、いたらおもしろいなあ、と思う。「イエスキリストとかではない神さま」とは要するに、一昔前流行った(?)「トイレの神さま」的なものである。


 私がまだ幼かった頃、父に「神さまはどこにいると思う?」と聞かれた。「お空の雲の上」と私が答えると、父は「そしたら、風子の神さまは雲の上にいるんだ。神さまは自分がいると思ったところにいるんだよ」と教えてくれた。なんとなく今でも覚えている記憶だが、父はこういうことを言う人柄ではないので、もしかしたら私が作った妄想話かもしれない。


 まあ、正しい記憶なのか妄想なのかはどうでもいい。十九歳現在の私の神さまはどこにいるのか、という話だ。今のところ、私は神さまに囲まれて過ごしている。万年筆には万年筆の。教科書には教科書の。ポシェットにはポシェットの神さまがいるのだ。そして「なんでも神さま」という最強の神さまもいる。なんでも神さまはつまり、神さまのトップ。ラッキーなことが起きたときの「神さまありがとう!」はなんでも神さまになるのだ。


 日常生活のいたるところに神さまがいるなかで、特に意識する神さまがいる。その神さまとは、「しま神さま(しまがみさま)」だ。しま神さまは、横断歩道の神さま。交通ルールを破るとこわ~い目に合わされる恐ろしい神さまである。


 そもそも普段から神さまに囲まれて生きていたとて、そんなに意識することはない。神さまの存在を思うのは、ラッキーなことがあって感謝するときか、悪いことをしてしまって恐れるときの二択だ。その意味でしま神さまは、普段から恐れている、つまりそれだけ日々の私の横断歩道のマナーに対する思いが強いと受けとってよいだろうか。


 横断歩道マナーは個人的にすごく気になる。だって下手したら事故だし。死んじゃうし。昔、横断歩道を渡っていて信号がちかちかし出したので走ったら驚かれたことがあった。こっちが驚きである。ちかちかしているのに優雅に歩いて渡る勇気など私にはない。ちかちかしているのにその時点から渡り始める人もよく見かけるが、あんなの言語道断だ。許せん。でも、この信念のせいで一人だけ渡らないで取り残されることもたまにある。そんなとき一緒に信号待ちしてくれる人がいたら好きになっちゃうなあ。閑話休題。それから、許せないけれどたまに私もやってしまうのが、しましまのないところで渡ることだ。真っ黒な道路を渡るときの私ときたら、そりゃあもう。この世の終わりみたいな雰囲気である。気分は踏み絵をさせられるキリスト教徒だ。


 もし、母親らしき人に「うるさい!渡るよ!」と怒られながら腕を引っ張られ、「しま神さま~~ごめんなさい~~」と言っている女の子がいたらそれは紛れもなく私なのでやさしく見守ってほしい。

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