ソードアート・オンライン

僕の世代は最も「ソードアート・オンライン」(以下「SAO」)が直撃していた世代で、というのも電撃文庫作品が圧巻していた時代に中高生を過ごしていて、ライトノベルもアニメもみんながみんな知っているような感じだった。
オタク多き高専だったからというのもあったかも知れないが。
しかしそこは逆張りたくなるのが僕で、ゲームと現実がリンクする話と聞いて、ンなモン「.hack」でとっくにやってるじゃねーか!と頑なに履修しなかったのである。
あの頃は若かった。

続編や映画も大ヒットし、「SAO」は世界にも名が知られるようになった。
キリトは中二病患者のミームとして至るところで見かけるようになり、さていよいよ何を言おうとも履修しなくてはならなくなってしまい、アマプラで開いては「この話数を全部見るのか……」と気圧されながらも、意を決して履修した。
すると、悔しいことにちゃんと面白かったのである。
好みの作風かと言われれば全くそんなことはなく、そもそもRPG的なゲームをポケモン以外に通って来なかったからその辺は全く面白くなかったのだが、現実とゲーム(非現実)の明確な区分けがされつつも、それを同軸に置かれたり、しかし何とかして切り離そうとしたり、兎に角その場面状況の展開が面白かった。
俗に言う「俺TUEEE」的なものは個人的には嫌悪する傾向にあるのだが、ミームから受けた印象ほどキリトが嫌らしくないのも良い。
厳密には結構その手の嫌らしさはあるのだが、そこまで苛立ちを感じないキャラクターデザイン(ビジュアルの話ではない)に、よくできたキャラクターだなと感心する。

現実パートは実写ドラマを見ているような妙に生々しいシーンもあり、振られた逆恨みでヒロインの一人と取っ組み合い、キリトの中の人()たる和人が乱入、すわ必死といったところでラジカセパンチ!……みたいなシーンが僕の中では一番記憶にのこっている。
こんなのマジで実写でしか見たことないよ……アニメでやるモンじゃないよ……と思った。
同じ電撃文庫ならば「灼眼のシャナ」が分かりやすくてよく例に挙げているのだが、現実と非現実を切り離した構図の作品の大抵は現実パートでは穏便な日常に徹底されていて、非現実との対比を際立たせるのがセオリーだ。
それをコンセプトでもあるように境目を曖昧にした結果、物語の展開も分け隔てなくドラマが起こる。
そこが面白い。
他にも重い病気で亡くなる子がゲーム上で最期を迎えるだとか、ゲームを決してただの「遊びの一つ」に留めさせないという強い意思を感じる作品だった。
原作者がゲームというものをとても大切にしていると思ったし、そのエンタメの持つ無限の魅力には心から同意と敬意を持つ。

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