ハッピーシュガーライフ

「ハッピーシュガーライフ」(以下「ハピシュガ」)はメンヘラ作品の1つの極地だと思う。
昔から常軌を逸した愛情表現を持つ「ヤンデレ」というキャラクター属性は確立していたワケだが、そこにサイコパスという狂気とメンヘラというバックボーンを合わせたことで、単純な属性としてのヤンデレではなく、ある意味リアルな闇として「病み」を描いている。

登場人物にマトモな人間がいない。
表向きマトモだが実は◯◯、ということは確かに大なり小なり誰にもあるが、その◯◯に常識の範疇の顔を持つ人が殆どいない。
強いて言うなら友人のしょうこ(推しだった……)を始めバイト仲間は割かし普通の範囲か。
しかし、僕の身の回りにいないだけで、こういった環境が当たり前の星の生まれもいるかもしれないと思うことがある。
例えば、この記事を執筆している2024年はトー横の家出少女たちが社会問題として大きな波紋を起こした。
中には小学生もいたと言うし、本来は親の被保護下にあるべき年齢で遠く離れた地で浮浪し、ただでさえ少数派である(と僕は信じたい)売春にその年齢で手を出したり、市販薬のオーバードーズだとかも僕の幼少期の環境からみればフィクションでしかあり得ない話だ。
トー横の例が極端だとして、もっと身近で言えば会社の後輩がマッチングアプリで色んな女性と関係を持った話も僕の友人関係からは考えつかない(女遊びの激しい友人はいたが、風俗以外のワンナイトは聞き覚えが無い)。
逆に、僕にとってはそれしか知らないものとして中学卒業後は高専へ行ったし寮生活をしたが、おそらく寮生活の方がフィクションで自宅から普通高校へ進学する人の方が割合は多く、そちらが一般には「普通」の感覚だろう。

僕は常日頃から「マイノリティーの最小単位は個人である」と言い続けている。
「ハピシュガ」の世界観からみれば、僕のような人生は物珍しいとか、恵まれてるなんて思われるかもしれない。
同じ生まれと育ちが存在しない以上は、そこにあるものが全てであるからにして、誰もがサイコパスなのだと思う。

ただ一つ、「ハピシュガ」で描かれる「愛」というものは綺麗なものだと思う。
メンヘラやヤンデレにとって、その愛は歪かもしれないが、残された最後の純粋な気持ちにして縋る最後の希望でもあると思う。
ただ、その感情の扱い方をよく分からなくて、思い通りにもならなくて、何処かが上手く噛み合わないのだと僕は考えている。
その歪だが透き通った感情を受け止める側がどう合わせ合わさせるのかなのではないだろうか。
多分、それがとても難しいのだろうが。

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