大人の歯科衛生士
今年から会社の健康診断に歯科検診も追加された。
その日僕は健康診断を終え、歯科検診が行われる歯科医院へと向かっていた。
かれこれ4年ほど、僕は歯科医院という場所に行っていなかった。
前回は親知らずを抜いたときに行ったかどうだったか、記憶も曖昧であった。
歯科医院へ到着し、問診票を記入して名前を呼ばれるのを待っていると、1人の歯科衛生士が僕の名前を呼んだ。
その歯科衛生士は、端的に言うとギャルだった。
マスクでは隠せない目元はバッチリとメイクがされており、爪先には煌びやかな施しがされていた。
スタイルが強調されがちな制服を着ていたが、あれは本当にスタイルが良い人だろう。
タイプだった。
歯科衛生士に導かれるままに僕は、歯科医院のリクライニングのできる、様々な器具が付いてある椅子に腰掛けた。
「何か気になることや悩みなどありますか?」
「特には無いですが、歯の黄ばみは気になります」
「タバコとかですよね」
「あとお姉さん」
「え?」
「お姉さんが気になります」
僕の口は無意識にギャルの歯科衛生士さんを口説こうとしていた。
「えっと…あ、前回歯医者にかかったのは…4年前と」
「そうですね」
「ってことは、結構ご無沙汰なんですね」
「はい、恥ずかしながら」
「ふ〜ん」
この相槌にどんな意味が含まれていたのだろう。今なら分かるが、このときの僕には、恋の車輪を加速させるには充分な一言であった。
「では見ていきますね」
「ひゃい」
平静を装うのは、僕にはまだ早かったらしい。
「では右上から、7番正常、6番C、5〜1番正常…」
歯科衛生士は急に短い沈黙を挟んだ。
「私の心拍数、異常」
顔を上向きにしている僕の目の前には煌々としたライトが付いてよく見えなかったが、お姉さんははじっと僕の目を見つめていた。
「お兄さんの心拍数は…」
もう一度内科検診を受けるのかと思った次の瞬間、お姉さんは自らの手を僕の胸に置いた。
「異常…なのかな?」
お姉さんは僕を少しいじめるかのような笑顔で、マスク越しでも分かる笑顔でこちらを見つめる。
「どんどん早くなってく…大丈夫ですか?」
「お姉さんの…せい…です…」
「私のせい?」
「僕の心拍数で楽しんでるでしょ」
「バレちゃった?」
「バレバレです」
今心拍数を測れば精密検査行きだろうなと一瞬考えたが、僕は脳みそをこの状況に没頭することに振り切ることにした。
「ヤバい、私の心拍数もどんどん早くなってるかも」
「何でお姉さんも?」
「測ってみてくれない?」
「え?それって…?」
お姉さんは僕の右手首をつかみ、自身の胸へと近づけた。
高まる鼓動。歯科医院という場所で、こんな清潔な場所で、女性の胸に触れてしまう背徳感のようなものに襲われながら、包まれながら、1センチ、また1センチと、お姉さんの胸に手を近づける。あと数秒、このペースで手を近づければ、お姉さんの胸と僕の手のひらが重なる。
「加藤さん、ちょっとこっち来てもらって良い?」
僕とお姉さんは身体をビクつかせた。
僕はお姉さんが加藤さんということをそこで知った。
「この歯科検診は、また今夜にでも」
「ええ、夜の9時に、またここへ来ます」
「待っててね、心拍数異常のお兄さん」
君もだろ、そう言う間も無く、加藤さんは歩いて去ってしまった。
その夜、仕事が長引いてしまい、9時を少し過ぎた頃、僕は歯科検診を受けたビルの下に到着した。
「遅い、遅すぎ」
「ごめんごめん」
「早く2人っきりの歯科検診しないと」
「なんだよそれ」
とりとめもない会話で笑う2人。
お姉さんは僕の胸に手を当てながら意地悪に言った。
「また心拍数異常だ」
「君もだろ」
僕はさっき言えなかった返事をようやくできた。
その歯科衛生士さんとの歯科検診は、朝まで続いた。
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