ユーモレスク 8
2章 オグリの基地
tatikawa kitou
オ「荒神様の『裏庭』じゃ」
ア「なんちゃー!」
荒神様とは、人々の食生活を守る神様を祭る神社である。二月のとある一日には、盛大な植木祭りが開かれ市内外からこぞって客が鳥居をくぐる。
が、それ以外の日はおよそひっそり陰鬱ながら、子供たちにはこの鎮守の森も恰好の遊び場であった。ただ、荒神様の社の両脇は壁門で閉ざされこの奥へとは入れなかったのだ。
「サッちゃん。今の跳べてなーい」
隔たれた壁から女の子たちのはしゃぎ声が届いた。
いつも女の子はゴム跳びでスカートの股間を手で押さえながら片脚でゴムをまたぐ高さを競い合い、男の子は三角ベースボールでピッチャーはいつも三振狙いで暴投を繰り返し、バッターはいつもホームランを狙い渾身の力で竹バットを振りぬく。
そう。荒神様は確かに小学校の敷地のすぐ裏手であった。今、オグリとアルツはその内側にいるのだ。
ア「タキエモトナガに怒られるな」
オ「間違いないじゃろ」
タキエモトナガとは齢87歳、毎日毎朝杖を突いて荒神様の献花を替えにくる神社の守り人のような方で、アルツもオグリもタキエモトナガが男なのか女なのか知らない。
完璧なる白髪頭のタキエモトナガはいつも古びた着物を着ていたが、見たふうも声も男に似ていたし女にも似ていた。男らしくもあり女らしくもあった。ただ、番犬のようにタキエモトナガはここで遊ぶ子供へ杖を乱暴に振り回しキャンキャン戒め続けてきた。
「この裏森には誰も入れんし、入ろうとも思っちゃいけんっ!」
「なして?」
「この頭を見ろ。この髪も昔は真っ黒じゃった。この裏の森を見たとたんに真っ白になったのじゃ」
「裏森にはなんかあるんじゃ?」
「なんもない。ただの砂だらけの砂漠じゃ」
「ただの砂場じゃったら、べつに怖ぁないっちゃ」
「見た目はただの砂場じゃが、実は人間だけを飲み込む蟻地獄の砂場なのじゃ。ええか、よう聞け。このお社の表側は神様が人を守ってくれる鎮守の森じゃ。じゃが、このお社の裏森は神様ご自身の森じゃ。人が入ってはならぬ森なのじゃ。それを最後に見た者がこのわしなのじゃ。足は踏み入れん。ただ、チラッと見ただけで、そのために一瞬で髪がこうなった……うっ、うううぅ」
タキエモトナガの説教の最後は手の平で顔を覆い、常にオロオロ崩れ落ちるように泣いて見せて終わった。
ア「オグリ。おれの髪、まだ金髪か?」
オ「だいじょうぶじゃ。金髪じゃ。おれなんかもう何回もここに来ちょる。夜も来ちょう」
ア「全然、砂漠じゃないっちゃ」
オ「うん。じゃが、蟻地獄っちゅうのはここの出入り口の通路のことかもしれんっておれは思っちょる。なんも知らんでスコンって落っこちたら、そりゃァ、ちょっとは怖いじゃろう?」
ア「確かにそうじゃが、タキエモトナガは――」
オ「アルツ。それよりアレを見ィ」
オグリが顎をしゃくって示した。
オ「アルツ。おれ、あんな小っちゃい堤、生まれて初めて見た。初め、ただの水溜まりかと思うた。
二人は森の中心に向かって歩き出した。その堤は、横たわる焦げた大木のすぐそばにあった。長い直径が二メートルにも及ばぬ楕円のカレー皿のような堤だった。その堤の水面は周囲の景観とのギャップに研ぎ澄まされて、空恐ろしいほどの透明感を際立たせている。
オ「よう見てん。アルツ。『ざりがに』じゃ。ぶちおるっちゃ。」
ア「ほんとじゃ。ようけェおらァ。ん? でも。オグリ。全部『日本ざりがに』じゃ。『アメリカザリガニ』が一匹もおらん」
オ「そうなんじゃ。ここには『アメリカザリガニ』はおらん。——不思議じゃろ? よそじゃ『アメリカザリガニ』ばっかで『日本ざりがに』はめったに見んそに」
ア「オグリ。たぶん、ここにはヨソモノが入って来れないんじゃ」
その時、オグリとアルツの目の前を虹色の糸トンボのオスメスが、まるでミサンガのように尾と尾をくっつけてスローモーションで空中を流れた。
ア「ささやかじゃ」
オ「ゆうがじゃ」
同時にこぼれた。
オ「アルツ。こっちに来」
オグリが三本の老樹の前に立ち止まった。
ア「オオクワガタ?」
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