マクロとミクロ
こういうブログを書いていると少なからず批判的な意見を浴びたりする。こんな小規模ブログですら、批判的な意見が寄せられたりするのだから、インフルエンサーと呼ばれる人たちはさぞかし大変だろう。ネット上には様々な意見を持つ人たちがいて、自由にその意見を検閲なく発信できる。それは良さでもあり、モラルを守るのは発信者自身の匙加減のみという危うさもある。だからこそ、インフルエンサーたちの自殺は後を経たないのである。
さて、そういった批判的記事を目にすると大体の場合、価値観が一方通行なことが多い。当然の如く本や雑誌、またはインターネットというのはあるテーマに沿って話しが展開されており、結末はそれが世の中の見方の全てであるような言い方で大体終わる。当然読者はテーマ通りの話しの展開を期待してその媒体を購入しており、本を読んだ結果、テーマとは全然異なる帰結にたどり着いたという破茶滅茶な結果にはなり得ない。だからこそ、幅広い物の見方というのは重要で、知識というものに終わりが無い所以である。
例えば現在問題となっているミャンマーの問題だが、当然歴史的背景により弾圧が繰り広げられている。しかし、それは末端の兵士まで全員が強く意識していることとは到底思えないし、それだけが理由で今の惨状が繰り広げられているわけではない。そこには群集心理であったり、個人的な恨みであったり、または曲がった正義感であったりと複雑に絡み合う。
もう何十年も前になるが日本に戻ってきて一番驚いたことの一つに議論が成り立たないことがある。知識や理解を高めようと思って議論が展開されているのではなく、どうやって相手を論破して自分がスカッとした気持ちになるかを目的として徹底的に叩きのめすことが議論であると思い込んでいる人たちがあまりに多い。自分が嫌な思いをしたく無いから発言もしない。そのような風潮の積み重ねが「意見を持たない日本人の輩出」の根源になっていなかっただろうか。
繰り返しになるが、物事はマクロとミクロ複雑に絡み合って構成される。それを忘れた時点で、物事は歪んだ見方となり、それ以上の発展性を失う。ネット社会には多くの善意と少ない憎悪が渦巻く世界であるが、1番の問題は書いたことは残るということである。自戒を含め、それを今一度意識して付き合って行きたいものである。