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AIと芸術性

 言わずと知れた人工知能AI。これが人間社会の一つのテーマとなってから久しい。人口減の日本ではこのAIの活用が国の存続に関わるとまで言われている。私個人としてもAIを授業に活用できないかとずっと模索している。

 当初AIとは万能なもので、これを使えば人はもういらなくなるのではないかという期待と不安を併せ持ちながら研究を進めていた。しかし、知れば知るほど、一部の研究者からは「人工無能」とディスられている意味が理解できる。基本的にAIは過去のデーターを分析したり、多くのデーターの法則性を見つけ出したりということに長けているが、そのほかのことはほとんど何もできない。しかも、それを覚え込ませるのは人間だし、人間が意図した通りにデーターを解釈するかはまた別の話しなのである。

 つまり、囲った世界の中で人間のデーター分析を少し楽にする。それぐらいがせいぜいAIにできることなのだ。自己学習して感性を磨いたり、倫理観に基づいて行動したりというアンドロイドが活躍する世界というのは先のまた先の話しになる。これで一安心。。実はそうではない。ということが今回のテーマである。

 そういった特性を持つAIをどのように授業で活用しようと考えているかはまたいずれの機会に譲るとして、芸術性という部分に関して人間には及ばないと前述したが、実はかなり人間を感動させるレベルに近づきつつある。

 これはAIが作曲した曲である。知らなければどこかのプロか、そうは言わないまでもYouTuberが作ったように思うほどの完成度だ。

 こちらは絵画である。これも本当に人工物が製作したのか?と驚くほどの出来栄えだ。しかも、絵が4500万円で落札されたというのは、もはやAIを活用することにより誰でもプロの画家になれると言って問題ないレベルだろう。

 さて、本題に戻ろう。AIはデーターを解析することしか基本的にはできない。それなのに人間の「感性」にまで踏み込んできている。これは何を意味するのだろうか?

 感性を始め、人間が崇高なものとして考えていたものにもパターンが存在していたということだ。「創造的なもの」「斬新さ」などと我々は定義づけるが、AIからしたらデーターの寄せ集めでしかなく、解析可能ということだ。愕然とし、「それは違う!」と叫びたい気にもなるが、「感情」を理解することが基本的にはできないAIにその訴えは無駄だ。

 いや、感情すらもデーターとして分析できるのかもしれない。今までも我々が聖域として大切にしていたものはコンピューターにより踏み躙られてきた。本当にコンピューターには理解できない人間だけの崇高な領域。今後それを我々は見つけ、鍛え上げていくことだ。そうでないと、職業ではなく人間自体がAIに置き換えられてしまうかもしれない。


世界を旅するTraveler。でも、一番好きなのは日本、でも住みたいのはアメリカ・ユタ州。世界は広い、というよりも丸いを伝えたいと思っている。スナップシューターで物書き、そうありたい。趣味は早起き、仕事、読書。現在、学校教員・(NGO)DREAM STEPs顧問の2足の草鞋。