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Every day is new day

荘に入居して4ヶ月経過。
4ヶ月前の自分と今の自分で何が変わっているのだろう。
逆に環境が変わっても、自分の中で変わらないものは何だろう。
時々立ち止まってみると、何で今俺は函館にいて、古民家で共同生活をしているのだろうと思う。
てかそもそもなんで生きてんだ?
自分の人生を振り返ってみたいと思う。
と思っていたら、年が明けましたね。
ありがとう2020年。おはよう、よろしく2021年。


○幼少期

母から聞いた話。とにかくTAROくんは好奇心が強く、夢中になったら止まらない子供だったみたい。ゾーンみたいなものに入って、日が暮れてもずっとお外で遊んでたみたい。
しかし、遊びに熱中していながらも常に母の現在地を確認して、安全確保を自分なりにしていたらしい。(笑)
動き回りながらも自分なりにリスクヘッジをする慎重さ(意外ですか?)はこの辺りから垣間見られる。
さらには、妹を我が子のように溺愛していたらしい。子供授かったこといないけど。
5歳になると僕は父の仕事の関係で家族揃ってアメリカに移り住むことになる。
多国籍な空間に放り込まれた僕は、日本との文化の違いに驚くことになる。
違うことが前提で物事は進むし、とにかくハグやキスなど身体的距離が近い。
自分の主義主張を表現することが良しとされ、そこには過度な忖度や恥じらいがない。
何もかもがフレッシュで、エキサイティングな毎日だった。
Elementry schoolに上がった頃には、アメリカ人の女の子にしっかり恋もしていた。名前はSummerちゃん。ブルーの瞳に向日葵のような笑顔でガッチリと僕のハートを掴んでいた。大人になってFacebookで友達申請したのだが、未だに承認してもらえてないのは何ともお悲しいお話。
そういった環境に2年半身を置いたことで、わりと積極的で外交的な一面が形成されていったのかもれない。


○小・中学生

金髪碧眼美女との恋に敗れたTARO少年は祖国日本に帰国する。
みんな一緒であることが前提でコトが進み、礼節を重んじ、年齢主義をとっているため上級生や先生には敬語でお話しをする。
異質なものには基本的にクローズマインドの風潮に、僕は思いっきりぶつかることになる。
ガイジンだの肌の色が黒いだの(地黒なんです)散々叩かれ、僕は幼少期にそれなりに大きな傷を負うことになる。
とにかく自分の心理的安全を確保するため、アメリカでの自分と真逆の自分を演じる手段をとるようになる。
周りに合わせ、できるだけ嫌われないように多数派の意見を支持し、クラスのリーダー的なガキ大将に媚び諂う自分になる。
自分のアイデンテイテイを殺し、自分を偽り、息を潜めるように生活していた。
自分のことが嫌いで嫌いで惨めで仕方がなかった。
そんな自分を変えたくて、塾に通いたいと親にねだるようになった。
たくさん勉強してみなよりも勉強ができるようになれば、みなに認められるんじゃないか。
そう考えた。
周りから認められることで、自分のコンプレックスや劣等感を解消することを目的に僕は勉強をするようになった。
その力は自分で言うのも何だが、凄まじいものだった。
「認められたい」という一心で走った記憶がある。
今思えば、そこまで自分は追い込まれていたんだなと思う。
そのおかげもあってか、地元では名の知れ渡る進学校に進学することになる。

○高校生

とりあえず自分のコンプレックスは進学校に入学することで一時的にある程度解消されることになる。
(外的要因が満たされても本質的には解消とはいえないのだが、当時は解消したと思い込んでいた。)
高校時代TARO青年の関心は外見的なものにいく。
軽い高校デビューみたいなものだ。
校則が緩い学校だったため、ワックスをたっぷり使って朝洗面所の鏡で30分ほど髪型を整えたり、学ランのボタンを盛大に開けてみたり、ヴィレッジヴァンガードで買った意味のわからない七色のブレスレッドを嵌めてみたりした。
虚勢を張りまくり、ハリボテみたいなくだらないプライドで自分を覆っていた。
当時仲良くしていた友達にも相談できず、高校二年生から精神科に通院するようになった。
小・中学校時代とはまた違った角度で、自分に嘘をついていたような気がする。
交友関係もめっちゃ広〜く浅〜く。
知り合いの数が多いことに存在意義を見いだしていた。
結果的に社交スキルが上がることにはつながった?が、顔が広いことで自分の幸福度は大きく上がらないことに気がつく。

○大学生

とにかく高校時代は天狗になっていたので(正確にいうと、それだけ自分に自信がなかったので)大学では人間を見下していた。(結局自信がないんです。)
自分以外の人間はクズで下等動物以下だと本気で思っていた。(自分が一番クズでした。)
同じ学科の人間とは距離を置き、孤独を守っていた。
俺は孤高な男だと自分に陶酔していたし(キモい)、寂しさを埋め合わせようと外的なものを求め、自分を削っていた。
派手な髪色や高圧的な態度で周りを威圧し、(実際に威圧できていたかは定かではないが。。)自分から逃げていた。
そんな中、一つの転機になったのは高校時代から続けていたテニスだったと思う。
テニスというスポーツはシンプルだが、実に奥が深い。
自分のメンタル状態が露骨にプレーに出る。
自分を偽ろうとしても、どこかでボロが出てしまう。
嘘がつけないスポーツだと言っても過言ではないように感じる。
実際高校時代は散々で、自分の未熟さをまざまざと突きつけられた。
大学に入ったある日、僕はいつものように早朝練習のため自転車でテニスコートに向かっていた。
その道中に突然、頭に雷が落ちたかのように僕は閃いた。
性格やメンタル状態が行動に相関するとしたら、行動を変えたら性格、メンタル状態も変わるんじゃないかという発想が生まれた。
これは認知行動療法の分野なのかもしれないが、自分の思考ではなく逆説的に行動にフォーカスするようにした。
この日を境に、僕は考え方を180°変えることにした。
例えば今までの僕はテニスの試合でミスをした後、自分に苛立ちラケットをぶん投げたり、暴言を吐いたりと自分を叱責していた。
自己否定の嵐で、自分に寄り添おう素振りすら見せなかった。
マインドセットを一新してからはミスをした後でもガッツポーズをし、(他大学のテニスプレイヤーからは教育大の黒くて背の高いやつ頭おかしいと言われていたらしい。笑)自分を積極的に励まし、自分を受容するよう努めた。口角を意識的に上げて笑顔を作り、できない自分でもいいと自分を認めてあげるようにした。
この試みを重ねていくと、面白いことに自分の思考パターンが徐々に変わっていくのが分かった。
人間は自分の思考と行動のギャップを無意識に埋めていく習性(認知的不協和)があるみたいだ。
思考の癖は中々抜けないので時間はかかったし、幾度となく挫けそうになった。(今でも毎日のように挫けそうになります。)
でも辛抱強くコツコツと自分なりに積み重ねていった。
ここから僕のマインドは幼少期の頃のようなゾーンにも似たような状態に入ることになった。
テニスの試合中にかぎらず日常生活でも思考の幅は広がった。(雪野太朗というごく小さな主体の中での小さな世界に過ぎませんが。)
自分は世界で一番ラッキーな男だとごく自然に思えるようになり、自分にとって本当に大切なものとそうでないものとの区別が少しはできるようになった。
今まで他人軸で生きていた自分だったが、自分が影響を与えられるものとそうでないものを判断し、少しづつ自分の内面に意識がいくようになった。
服や髪色も自然と落ち着いたトーンになり、使う言葉や日々の習慣も変わっていった。
人ってこんな変わるんだな〜って自分でも思うぐらいの変化量だったと思う。

○社会人

ほとんど学校には行かなかったのにもかかわらず、運よく教員免許を取得して(僕はラッキーボーイ)大学を卒業した。
世界中を旅してみたかったが、とりあえず学生ではいられなくなり、銀行口座に5万円ぐらいしかなかったので教員をやってみようと思った。(笑)
教員は小学校の頃からやりたいと思っていた職業だ。
社会経験にもなるしお金貯めながら楽しもうと、選んだ土地は沖縄県西表島。(笑)
どうせ教員をやるなら行ったことのない土地でやりたいと思っていたし、元々大学時代も興味本位で石垣島に住んでみたりとご縁はあった。
教員になったからには、とにかくやるしかないので右も左も分からない中ただひたすらにがむしゃらに走っていた記憶がある。
正解のない問いに対して走りながら考え、とにかく動いていた。
生徒と先生と毎日たくさんぶつかり、いろんな感情を味わった。
ハードな日々に耐えるため、毎日筋トレとランニングをして体力をつけ、マラソンを始めた。
ハブという有毒のヘビと格闘したり、竹輪サイズのオオムカデと一緒に寝たり、元気の良いイノシシと遭遇したりと、まずまず刺激的な生活を送っていた。
全校生徒15名の小規模校に勤めていたため、教員一人一人が抱える仕事も多岐に渡り、いろんなコトにたくさん携わらせてもらった。
日々過ごしていく中で、もっともっといろんな世界を観たいと思う気持ちが強くなっていった。
当時、知的好奇心が僕の全てのエネルギー源だった。

年度が変わり、僕は海外放浪の旅に出る。
スウェーデンからスタートし、半年ほど自分が興味のある国を巡った。
一番の思い出はアイスランド。一人で一週間ちょっとかけて一周した。(一が多いですね。)
旅を総括して思ったのは、一人では遠くまでいけないということだ。
物理的には日本から8000キロ以上離れた場所に行くことはできる。
もっと遠い場所にも行けるかもしれない。
ただ僕の中では何かが満たされなかった。
それが隣にシェアできる人がいないことなのか、旅先のご飯が口に合わず3日間食中毒になったことなのか、15時間バスに乗ってお尻から流血したことなのか、ガソリンスタンドでインド人と口論したことなのか、口説こうとしたフィンランド人の女性に軽くあしらわれたことなのか、よく分からないがとにかく一人では充足できないことが分かった。

帰国後は、ずっと毛嫌いしていた東京で貧乏フリーター生活を半年やった。
食わず嫌いはよくない。海外の旅で少し許容力が上がったのかもしれない。
この頃から本格的に健康生活にハマっていて、サツマイモやブロッコリー中心の生活にシフトし、運動を1時間、瞑想を30分毎日やった。
リーンゲインズという16時間のプチ断食も生活に組み込み、かなりストイックに生活していた時期だ。
そのおかげで元々多くもない友達はさらに減った。(笑)
謎に六本木の富裕層向けのスポーツジムで働き、資本主義社会の影を感じた。
物質的欲望、社会的地位に溺れると大変なんだなと勝手に思ってた。
東京に住んで思ったのは、なぜこんなにも狭いところにわざわざ人やモノがたくさん集まっているんだろうということだ。
息苦しくて仕方なかった。
僕の性には東京の暮らしは合わなかったように思う。

僕は年度が変わるタイミングで地元静岡県に帰り、刃物メーカーの海外営業部で働くようになった。
1年に及ぶ工場研修で忍耐力とタフさが少しは磨かれたのではないかと思う。
本当しんどかったけど、やり抜いたら絶対成長できると信じてやり切った。
研修を無事完遂させ、いよいよ海外出張と思いきやコロナ拡大で道が閉ざされた。

モチベーションを失った僕は、仕事を辞めて3年前に卒業した函館にカムバックすることにした。
わらじ荘で共同生活を始め、今は公益施設で働いている。
とまあ、ありがたいことにこれまで26年間ほど僕なりに生かせてもらってきた。
結局、函館にきた理由とか入荘した目的を書こうと思ったのに、函館に来るまでの人生の振り返りがメインになってしまった。(笑)
まあそれは今後の研究課題とさせていただきまして、とにかく毎日丁寧に生き抜きたい。
ささやかな矜恃を持ち、一日のうち一瞬でも周囲の人たち、まだ出会っていない人たちの幸せを願える人でいたい。
願うと同時にいやそれ以上に、少しでも少しでも行動で示せる人間でいたい。
言葉なんて言葉だけならそれは、どこまでいっても単なる言葉に過ぎない。
誰だって言えるさ。
僕にとってもっと大切なものは、言葉に伴った行動。行動に伴った言葉。
体現できるよう、小さなことから大切にしていきたい。
これからも皆さんよろしくお願いしていただけると、僕の胸がぽっと温かくなります。
よしなに〜


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