大学生の知人への返信

学ぶということは、良く生きるということ。

僕たちには「知りたいという」という欲求がある。
知識をゆっくり重ねていく作業は尊い事だ。
ところが、知識は手段であって目的ではない。
そこを勘違いしてほしくないと思う。

夜間高校の入学式に行ったことがある。
どこか哀愁の香りが漂う体育館だった。
新入生の数は30人ほどだったと思う。
普通の高校のそれと違う。
いわゆる金髪とピアスとダブダブのズボンを履き闊歩する男子生徒。
赤ちゃんを腕に抱え、あやしながら入場する娘。
肉体労働の夜勤あけを思わせる日に焼け疲れたおじさん。
下を向きながら、唇をキュッと結んだまま青白い顔の男女。
意味ありげな人生模様が交錯する新入生。
用意されたほとんどの親の席には寂しげに椅子だけたたずんでいる。

入学式は粛々と進んだ。
生徒の席は、それに対抗するかのように騒がしく、おしゃべりがあふれ、
片膝を椅子の上に立て後ろの友達と話をしていると思えば、
喧嘩でも始まるのかといった様子だった。

砂漠の乾ききった砂のような校長の挨拶が終わり皆がほっとした時だった。
やがて生徒の赤ちゃんが泣き始めた。それにつられてもう1人の赤ちゃんも。体育館の会場に赤ちゃんの泣き声が響き渡っていた。
建前だらけの校長の薄っぺらい挨拶はさておき、
教務担当の先生が式の終わりがてらに言った。

「ちょっと言わせてもらう。」
その凛とした口調が、式に一瞬の静寂をもたらした。
泣いている赤ん坊の泣き声だけが響きつづていた。

教務担当の先生は淡々と続けた。
「様々な事情のある生徒が今ここに集まり、入学をした。
どんな服装や髪型や言葉遣いをしようと私は構わない。
君たちは大人だ。いわゆる社会から君たちの振る舞いがどう見られ
君たちがどう評価されようが、所詮自分だけに跳ね返ってくることだ。
そのくらいの覚悟はできているだろう。」

教務担当の先生の言葉は、大声でおしゃべりをしたり携帯をいじったりする生徒を注目させるに十分な迫力をもっていた。

先生は続けた。

「問題はそんなところじゃない。
赤ん坊が泣いているが、赤ん坊を連れて出席しなければならない生徒。
仕事終わりに駆けつけた作業着の生徒。
様々な生徒が、様々な事情を超えて「学びたい」と考えていることだ。
学びたいという気持ちを忘れられずに今ここに入学して来たことだ。
その学びたいという気持ちに私は大事にしたい。
人として立派じゃないか。
逆に授業を妨害するような、『学びたい』気持ちを踏みにじる行為は断じて私は許さない。
赤ん坊の泣き声は不可抗力だ。あたたかく見守ればいい。

許せないのは、入学式という場で、大声でしゃべり、友達とじゃれて遊んでいるそこの生徒たちだ。
学びたいという気持ちがなく、さらには授業を邪魔する人は今後出て行ってくれて結構だ。
いろんな事情を抱えながらも、歯を食いしばって乗り越え、
学びたいと考えている生徒のために夜間高校はある。以上。」

教務担当の先生の言葉は、生徒たちにどう映ったのか?
静まった体育館に赤ん坊の泣き声だけが響いていたのを覚えている。

学びたい気持ちを儀式によって再認識する場が入学しならば
こんなに素晴らしい入学式はない。

学ぶという気持ちに「汚れ」がないことがどれだけ美しいことなのかわかってほしい。

改めて聞こう、「君はなぜ学ぶのか?」
親が望むから?先生がそう言うから?皆が勉強するから?良い大学行きたいから?よい就職をしたいから?

学ぶということは、手段であり目的ではない。
ならば、知識とは刀のようなものなんだ。
人を殺すこともできるし、人を暴力から守ることもできる。
目的によって手段は自由に使うことができる。

例えば、「世界の半分はなぜ飢えるのか?」という名著によって
世界の不平等と闘うスーザンジョージ女史は知識を民のために使った。
かと思えば、「比較優位性の理論」という学問を盾に
実際に新興国の人々を間接的に殺し、飢える世界を作り、戦争を起こして来た特権層もいる。
知識は、人を殺すこともできるし、逆に人類の本当の発展にも使うことができる。

知識をどう使うのか、という問いに対して考えるために
先日、次の本を読むようにと私は君に宿題を出した。

1 アンデルセン童話「みにくいアヒルの子」
2宮沢賢治著「銀河鉄道の夜」
3トルストイ著「イワンのばか」
4トルストイ著「2人の兄弟」

高校生の君に何を今更童話を読ませるのかって不思議に思ったかもしれない。
難しい言葉を羅列して高級な議論に見せかける知識人は山ほどいる。
しかし本当に皆と思いを共有したいと考えるならば、難しい言葉なんていらないんだ。
難しい言葉と横文字を並べて陳腐な理論を高級に見せかける知識人はとても多い。見せかけは、所詮、陽炎の様にきえていく。

上記の4つの中で、幼少期から植え付けられる陳腐な「幸福論」が
綴られている作品がある。お分かりだろうか?
それは、勝手に「常識」と思わされる「幸せの形」として世の中に浸透している。
もはや、子供の頃から植え付けられた、呪詛とも言える。

「みにくいアヒルの子」がそれである。

アンデルセン童話の全体的な傾向は、サクセスストーリーだ。
「みにくいアヒルの子」を代表として、この手のサクセスストーリーには、
どうしても嫌悪感が残るのは私だけだろうか。
アヒルの群れの中で、他のアヒルと容姿の異なるアヒルの子はいじめられたが、
最後は白鳥の子であることが分かり、めでたしめでたし・・・
なぜ、「アヒル」もしくは「他の鳥」でなく、
美しい白鳥でだと「めでたしめでたし」となるのだろう?
最後はお妃様や、王様となってめでたしめでたし、という話は皆思いつくはずだ。
権力者・お金持ち・表面的な美をもって、めでたしめでたしとする昔話や映画は多い。
子供の頃に見るアニメ、映画、昔話、テレビ番組は、
「何をもって成功とするか?」という点では、非常にお粗末なものがほとんどだ。

実は、トルストイや宮沢賢治など、
文豪の中には「畏敬の念」を感じさせてくれる偉人がいる。
「イワンのばか」を名著として語り継がれなくなった時、
人々には終わりが訪れるとさえ思う。
逆に「イワンのばか」を名著としてしている人類は人々の救いでもある。
人々はあの「イワンのばか」を名著としているのだから捨てたものではない。

細かな解説は必要ない。
なぜなら人々はこれを名著として子供たちに読み聞かせする行為が存在するからだ。
人々は心底ではこれが名著だと感じているからだ。
庶民の人々の良心こそ、人類の知恵なのだ。

欲を捨てた社会を「理想郷」とするならば、争いも揉め事も不平等も砂浜の城の様に消える。


人類の知恵を少し掘り起こして考えてみよう。

 宮沢賢治は、実はトルストイの影響を非常に受けた文学者です。
「銀河鉄道の夜」も西洋の香りがしたはずだ。
 ところが、宮沢賢治は「銀河鉄道の夜」の中で
 香りの良い、美しい主張をしている。
その彼の哲学こそが、時を超えた真理だと私は思う。

ーーー引用ーーー
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸さいわいのためならば僕のからだなんか百ぺん灼やいてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙なみだがうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧わくようにふうと息をしながら云いました。
 ーーー引用終わりーーー
 
何故、カンパネルラはわからないとぼんやり言ったのか?
そして、この物語の終わり部分で、何故カンパネルラは列車から降りたのか?考えてみてほしい。

この物語、つまり宮沢賢治は
「人のために身を焦がして尽くす、あるいは命まで捧げる行為」より
もっと崇高な行為があるのではと考えているんだ。
列車に乗って天上に行くことのできるのは、ジョバンニだと言っているんだ。

自分の命の火が燃えているからこそ、他人が始めてそこに「ある」。
自分が幸せのなかで生を全うしながらにして、他人も幸せなら・・・
それこそが彼が亡くなる直前まで考えていた天上へたどり着く結論だった。
では「幸せ」とは、「他者との繋がり」を創造することだと彼は言っているのだ。

名著「星の王子さま」(サン=テグジュペリ著)の中で、王子さまが言う。
「星があんなにきれいなのも、目に見えない花があるからなんだ。」
その王子さまの言葉に感動を忘れては、幸せにはたどり着けない。

本当の名著とは、最後に「お金」「身分」「権力」とは全く関係ない形で
「本当の幸せ」つまり「繋がり」を手に入れるものなんだ。


次に勧めた本は、トルストイの「イワンのばか」だったね。
この本を読み終えた時、ふと思わなかったかい?
イワンは馬鹿のか?って。

今の社会の経済システムのなかで、「人として」正しく生きていくためには
イワンの国民の様に皆が「ばか」になる必要がある。
 今は、この童話が意味することを漠然と心に刻んでおけば、
数年後に君は私の意図することに気づくはずだ。

その結論は4冊目のトルストイ著「ふたりの兄弟」につながる。
「自分のために一切使うことなく、恵まれない人たちのため」に拾ったお金を使うことに
トルストイは完全否定をしている。
この物語を大学時代に読んだのですが、50歳を超えて初めて私も真意がわかりました。
これも解説はしません。

答えは自分で導くからこそ、自分の宝物になるのです。
その宝物は決して誰も盗むことのできない、自分だけの宝物です。

その宝物さえいつもポケットに入れておけば、
幸せなんて道端の石ころと一緒に転がっていることに気づくはずだ。

今日は、経済学を学びたい君に、回りくどいことを言ったかもしれない。
でも知識は誰のために学び、誰のために使うのか?
そのためには「人として」幸せをどう考えるべきか?

日常の小さな幸せを紡ぎながら、幸せを心の宝物にして欲しい。
誰も奪うことのできない幸せを持つことが出来たら、
君は本当の財産もちなんだ。


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