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現代社会における名前の不自由さと自由に名前を決められる社会の夢想

この記事は、人生たのベントカレンダー🎶 Advent Calendar 2023 8日目の記事です。

自分のmsk.ilnk.infoにおけるアカウント名は、鳥村栞乃となっている。これは、このアドベントカレンダーを主催した人と同じIDの人に呼ばれたからだ。

もともと自分は西村透と名乗っていた。ただ、その人からトーリーと呼ばれ、酉村と呼ばれた。呼ばれるうちにその気になってしまった。漢字が少し違うが、ハンドルネームを変えてみたのだ。そういったことがあり、なんかの縁であるため、今回は名前についての拙考を書きたい。


現実世界における名前の拘束性

一般生活で、あなたはどう呼ばれているだろうか。多くの人は、苗字で呼ばれる機会が多いと思う。苗字が重複する人は、名前で呼ばれることがあるだろう。家族や恋人同士の場合、名前で呼び合うことが多いと思う。

そういったことを考えると、自分のアイデンティティの中における苗字は少なくない割合を占めることになるだろう。なぜならば、かなり多くの場面で苗字で自分が呼ばれ、書くことになるからだ。病院の受付に始まり、役所、お店でも苗字で呼ばれ、何かの登録や届出を書くときなど、名前を書かないといけない。友人同士や会社の人、学校の先生からも、苗字で呼ばれる機会はいっぱいある。

ただ、苗字や名前は、自分で決められるものではない。苗字も名前も、基本的に変えることは難しい。現代日本において改名することは、よっぽどの理由がない限り認められない。少なくとも、「なんか西村って名字が気に入らないから、北村にするか」といった理由で変えることは許されない。これは不幸なことではないか。

なぜならば、一番よく呼ばれる固有名詞が、自分のアイデンティティを占めるものが、自分で決められないからだ。自分が呼ばれる名前も決められないというのは、自由とはいえないのではないか。

自分の苗字を呼ばれることで、いじめられた記憶が蘇るという人にとって、名前を自由に変えられないのは辛いことだと思う。また、一昔前に「キラキラネーム」といって、一般的ではない名前をつけられた子供がいたという話があった。そういった人にとっての名前は、見たくもないし聞きたくもないかも知れない。しかし現実では、一生その名前を背負う必要がある。どれだけ可愛らしい名前をつけられたとして、歳をとってその名前にふさわしくない容貌になっても名前を変えることはできない。

与えられた名前から解放されうるインターネット空間

翻ってインターネット、特にSNSをみると、名前は自由に決められることが多い。もちろん本名を使っている人はいるけれど、あまり多くはないだろう。これはSNSの特性や目的によっても異なるため、断言はしにくい。しかし、本名を使わなくてもいい自由がある。

言い換えるとSNSは、自分の名前の自己決定権が保障された場所である。これは、現実社会ではあり得ないことだろう。名前を自由に決定できる自由をが、SNSではある。自分がどう呼ばれたいのかを自分で決められる。

SNSの匿名性が悪く言われることがある。一方で、SNSの匿名性は、自分の属性から解放されることができる。自分がどう見られるのかといったことから自由になれるのだ。男性が女性のような振る舞いをしたり、女性が男性のような振る舞いをすることができる。大人が子供のようなあどけない内容のテキストを打ち込み、汚れを知らない無垢な子供のように振る舞うこともできる。

同様に、SNSで名前を自由に設定できる。自分の名前が嫌で嫌で仕方なかった人が、自分の名前から解放されるのは幸福だと思う。自分の名前にまつわる嫌な出来事を意識しないですむだろう。それに、響きのいい名前を設定し、名前に飽きたらハンドルネームを変えるということもできる。かわいい名前、かっこいい名前、読みにくいような難読漢字を使うことも自由自在である。

名前を自由に変更できる社会への憧憬

そういったわけで、自分は名前が比較的自由に変更できるような社会があればいいなと思っている。問題となることは色々あるような気もするが、適応すればどうにかなるだろう。行政上で個人を識別するには、マイナンバーカードを使えばいいのである。

もちろん、名前を変えるためには一定程度の制限をかける必要があると思う。無制限に変えると、世間が混乱してしまうからだ。とはいえ、今みたいに事実上不可能な形ではない方が望ましい。

名前を自由に変更できる社会で、どういうことが起きるのかといった妄想を垂れ流しておこう。妄想なので設定をろくに考えていないが、名前は所属する共同体によって変えられることにしておこう。学校ではこの名前、会社ではこの名前、プライベートではこの名前、と言った感じで変えられれイメージである。

まず、親が名前を子供につけることはどういった意味になるのだろうか。親が子供に与える名前は、ペットに名前をつけるかのようになると思う。すなわち、今現在の子どもの可愛らしさ、愛らしさを投影し、自分が言っていて心地のいいような名前になるだろうか。

子供が小学生になった時はどうだろうか。名前は日常生活で接する機会が非常に多い。そのため、ネーミングライツではないが、企業が名前をつける権利を買い、子どもの名前が企業名になるということもあるかも知れない。例えば、「北村noteさん」と言ったことが起きるかも知れない。流石にそれはないかも知れないが、有名人や創作上の登場人物と同じ名前にすることはあるかも知れない。

中高生の時期は、色恋沙汰が気になる年頃である。そのため、カップル同士で名前を同じにするということがありそうだ。二人で決めた同じ名前を使うことが、愛の印になるかも知れない。また、いじめも起きやすい時期だと思う。呼ばれて嫌な名前をつけさせ、使わせると言った凄惨ないじめが起きるかもしれない。

大学生になると、自由度が増える。そのため、親にとって違和感を感じるような名前をつけるということがあるかも知れない。でも、就職活動の時期になると、第一志望の会社の名前を使い出すことがあるかも知れない。それか、その世界の大人が考える普通の名前をつける可能性がある。大変だ。

企業に所属すると、企業の一員として相応しい名前をつける可能性があるだろう。とはいえ、どういう名前が相応しいのかは企業によって異なる。会社のための名前になるかも知れない。ただ、場面ごとに名前を設定できることで、労働中とプライベートの区分がつけやすくなるだろう。逆に、プライベートでも会社の名前を使うことを強いる会社は、ブラック企業としてバッシングされるかも知れない。

一ついいことがあるとすれば、名前が自由になることによってストーカー被害が減らせるということである。名前が自由になるということは、そこから個人を割り出すことができないからだ。とはいえ、スパイに利用されてしまう恐れもありそうだ。難しい。

名前が自由に変えられる社会において、親からつけられた名前を引き継ぐことは、家のことをとても大切にする人であると認識されるのかも知れない。家族関係の問題で、親から与えられた名前をずっと使い続けることが嫌になるというのがあり得るかも知れない。そういった陋習が嫌で家を飛び出す…といった事例もありそう。

まとめ

あらかじめ決まった名前を使わざるを得ない状況は、アイデンティティを自分で決められないから不幸だと思う。また、名前で嫌なイメージを無理やり想起させられる苦痛があるかも知れない。インターネットでは、名前を自由に選ぶことができる。そのため、名前によって縛られたアイデンティティから自由になり、自分の呼ばれ方をコントロールできるかも知れない。


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