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#30 ヘレンケラーが最も尊敬した日本人

 今も昔も小学生の読む伝記として必ずリストアップされる人物の一人にヘレンケラーがいます。ヘレンケラーの名前を知らない小学生はいないくらいあまりにも有名な人物です。

 生後1歳9ヶ月で盲聾唖(見えない・聞こえない・話せない)となり、三重苦を乗り越え、障害者の福祉事業に生涯を支えたヘレンケラー。彼女に奇跡をもたらせたのは、両親の愛と家庭教師サリバン女史の献身的な教育であると言われています。けれども、彼女の心の支えになったもう一人の人物が存在したと言われています。
 その人の名は「塙保己一(はなわほきいち)」。江戸時代の国学者です。ヘレンが生まれたのは、明治時代です。生きた時代の違う彼女がどうして江戸時代の日本の国学者に強く影響を受けたのでしょうか。

1 ヘレンケラーとの接点

 ヘレンが生まれたのは、明治時代です。ヘレンの母は娘の障害についてグラハム・ベルに相談しています。そう、あの電話を発明したグラハム・ベルです。その時、ベル博士はサリバン女史を母親に紹介し、両親に保己一のことを語って聞かせたと言われています。では、なぜベル博士は保己一のことを知っていたのでしょうか。ヘレンが生まれる少し前に、ベル博士のもとで学び、保己一について詳しく博士に話した日本人留学生がいたのです。井沢修二(いざわしゅうじ)という青年で、後に文部省高官・教育者(信州高遠藩出身、音楽教育)になった人物です。
 昭和12年(1937年)ヘレンが初めて来日した時、真っ先に訪れたのが東京渋谷にある温故学会(おんこがっかい)だと言われています。下の写真がその時のものです。

ヘレン

 温故学会会館は、江戸時代の塙保己一の偉業をたたえると共に、その膨大な遺産である版木(木版印刷を行うために文字や図鑑を彫刻した板)の保存を目的に建設されたもので、そこには保己一の座像や愛用していた机が保管されています。それらに手を触れながら、ヘレンは次のように語ったと言われています。

「私は子どもの頃、母からハナワ先生をお手本にしなさいと励まされ、育ちました。今日、先生の像に触れることができたことは、日本の訪問における最も有意義なことと思います。先生の手あかのしみた机と頭を傾けていらっしゃる敬虔なお姿には、心から尊敬を覚えました。先生のお名前は流れる水のように永遠に伝わることでしょう。」

 盲目であることを嘆かず常に人々のために全身全霊で尽くした保己一の話をヘレンの母親は、いつも愛しい我が子にしていたと言われています。そしていつのころからか、ヘレンの心の中で「HOKIICHI HANAWA」という一人の日本人が、人生の目標となり同時に心の支えになっていったのです。

 では、ヘレンに大きな影響を与えた塙保己一とはどのような人物だったのでしょか?


 塙保己一は盲目でありながら大学者となり、『群書類従』と言う有名な古典全集を編集刊行しています。この『群書類従』は、古今・新古今、源氏物語、神皇正統記などなどを編集した、1270種、530巻666冊に及ぶ大変な労作です。これらの膨大な文献を、目が見えなかった保己一が学ぶためには、いったいどれだけの努力を要したのか、想像を絶します。

2 生い立ち

 保己一は1746年に武蔵国保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)に生まれました。幼い頃から体が弱かった保己一は七歳の時に病により失明。15歳になって江戸に出て盲人のための按摩(マッサージ)鍼(はり)、三味線などを職業にするため雨富検校(あめとみけんぎょう)に弟子入りしています。しかし、生まれつき不器用な保己一は按摩や鍼の修行に身が入らず、三味線もなかなか上達しなかったと言われています。「このままでは師匠に迷惑をかけるだけだから、死んだ方がまし」と、ついには自殺を図ろうとしました。幸い直前で助けられ、自殺は未遂に終わっています。師匠のもとに戻された保己一。通常なら破門され、国元に返されるのですが、雨富は保己一を叱責した後、穏やかな声でこうたずねました。「おまえは他のことに気がいっているのではないか。私はそのことをとがめようとしているのではない。申してみよ。」

3 上京

 保己一は学問がしたいという願いから、江戸に出てきたのです。幼い頃から記憶力が抜群で学問が好きだった保己一は、将来は江戸に出て学問を修めたいと考えていました。保己一は泣きながら師匠に学問への思いを打ち明けました。すると、師匠の口からありがたい返事が返ってきました。「好きな道を目指すのは結構なこと。これから3年は面倒を見よう。しかし、3年経っても見込みがなければ国元へ返す。」
 実のところ師匠の雨富は保己一の学才に気づいていたと言われています。手先の器用さはからっきしの保己一でしたが、医学書は一度聞いただけでも一字一句間違えずに覚えてしまうほど優れた記憶力を持っていたのです。
 それからというもの、保己一は本を貸してくれると言う人の噂を聞いては訪ね歩き、借りてきた本を読んでくれる人を探すと言う日々を送りました。やがてこんな噂が広がったと言われています。「雨富検校のところに珍しい書物好きの弟子がいるそうだ」「なりふりかまわず書物を持ち込み、だれかれとなくつかまえては読んでくれと頼みこむそうな」「その真剣さと言ったら、並じゃないってことだよ」
 保己一の噂を聞いて、下手な按摩ながらひいきにしてくれる人も出てきました。保己一は心を込めて彼らの体をもみます。按摩が終わると今度は彼らが書物を読み聞かせてくれるのです。読み聞かせのお礼に、按摩代を受け取らないのが保己一の流儀でした。
 神経を研ぎ澄まし、読み聞かせを真剣に聞く保己一。その姿にだれもが感動したと言われています。さらに一度聞いた書物は全部覚えてしまい、次に訪ねた時に意味がわからなかった箇所を質問したりするので、読み聞かせをした方が驚いてしまうありさまでした。
 そんな保己一の知識欲を満たしてくれる人物が現れました。隣の家に住む松平乗尹(まつだいらのりただ)という旗本です。彼は公務で多忙な日々を送っていましたが、保己一の噂を聞いてひどく感心し、自ら本を読んでやろうと申し出たのです。「一日おきに寅の刻(朝四時)から卯の刻(六時)までなら読んでやろう。どうかな。ちと早すぎるかな」
 保己一が乗尹の申し出を心から喜んだのはいうまでもありません。まだ暗い寅の刻、乗尹の力のある声が響きます。それを微動だにせず聞き入る保己一。やがて日が昇り始めると、あたりに物音がしはじめるので、保己一は終わりの時間が近づいたことを知ります。時間が来ると保己一はせめてものお礼にと、心を込めて乗尹の肩を揉んだそうです。
 早起きなんて保己一にとっては、少しもつらくありませんでした。幼い頃から夢見ていた学問の道を一歩一歩進んでいるといった実感が、保己一をさらに奮い立たせていたのだと思います。
 そんな保己一の向学心に感じ入った乗尹は、こんな提案をしてくれました。「わしの家で毎月、萩原宗固(はぎわらそうこ)という先生が「源氏物語」や和歌の講義をしてくれる。おまえもいっしょに講義を聴いてみてはどうか」保己一は飛び上がって喜びました。
 宗固の講義を座敷の隅に座ってじっと聞き入る保己一。その姿に心を動かされた宗固は講義が終わると保己一を呼び、その日に講義したことを尋ねます。すると、保己一は的確に答えた上で、難解だった点をいくつか挙げて宗固の意見を求めるのです。宗固は問いに答えつつ、内心舌を巻いていたと言われています。
 毎回その様子を目のあたりにしている乗尹は、さっそく雨富検校のところに出向き、保己一の比類のない才能について話し、その才能を伸ばすためには、きちんと系統的な学問をさせる必要があると説きました。もちろん、雨富にも異存はありませんでした。こうして保己一は晴れて国学者・萩原宗固の門人として学者の道を歩み出すこととなりました。さらに保己一は、宗固の紹介で当代一流の学者たちに師事し、文学・医学・律令・神道など、幅広く学んでいったのです。
 そして、約束の3年が経ちました。雨富は保己一の努力を認め、これまで以上に保己一を支えるべく物心両面でできうる限りの支援をしたと言われています。盲人の保己一が学問を深めていくためには、死ぬまで「読み手」を抱えておかなければなりません。そのためには金銭を得ることが必要です。雨富は保己一の官位を上げるために伴う多額の出費を厭わなかったと言われています。

4 賀茂真淵に弟子入り

 それから3年後、江戸期を通じて第一の国学者で、優れた教育者であった賀茂真淵(かものまぶち)に入門しました。その後30歳になると、雨富検校の家を出て、旗本の高井実員(たかいさねかず)の屋敷に住むことになりました。高井家に移っても、保己一の学問第一の生活は変わりませんでした。粗末な食事に冬でも足袋なしで過ごして、少しでも蓄えができると書物を購入するという日々を送っていました。
 ただ、周囲の反応は、少しずつ変化していきました。保己一の学者としての名声が高まるにつれ、来客が増え、弟子入りを希望する者まで現れるようになりました。そのような時、保己一に転機が訪れます。保己一の噂を聞いた大名家から藩で秘蔵している書物が正当なものかどうか調べてほしいと、鑑定を依頼されるようになったのです。あちらこちらに埋もれていた貴重な書物が、次々に保己一のもとに集まってきました。
 こうした状況になって、はじめて保己一は自らの天命に気づくのです。彼は、『和学大概』(わがくたいがい)と言う本に次のように書かれていることを思い出しました。
「すべて学問をするには古からの日本の国体を知らねばならない。国体を知るには古書の研究が必要であるが、そうしたことを好む人々が少ないために古書が失われて、百年も経ったら全く跡形もなくなってしまうだろう。これは太平の世の恥である。誰かこれを研究して後世に残したら、それこそ国の宝となるであろう」

5 出生の本懐

 保己一の心に使命感がわき上がってきたことはいうまでもありません。古書や古本の保存研究こそ、まだ誰も足を踏み入れたことのない事業であり、前人未踏のこの事業こそが、自分のなすべき仕事ではないかと。寺院や神社の文庫に入ったまま、多くの人の目に触れられることもなく失われていく書物や手紙。これらを一冊の本にまとめ、新たに版を起こして出版すれば、大いに後世の人々の役に立つはずです。そして、これほど自分にうってつけの仕事はないと保己一は考えました。
 この後、保己一は天命にしたがい、古書や古本の保存研究事業に邁進していくことになりました。彼は本の名前を『群書類従』とし、1797年、34歳の時から編纂を始めました。『群書類従』では、価値ある古書の群れを系統的に位置づけ分類しています。現代の私たちが古典古文として習う多くの書物が収められているのです。
 このようにして集めた文献について、保己一はその門人たちと原本・写本の綿密な吟味・厳正な校訂を加えた上で、印刷していくわけですが、現代のような便利な印刷機は当時ありませんから、すべて版木で行います。専門の職人が、一枚の板に20字×10行を1ページとして左右2ページを逆向きに彫っていきます。彫った後の文字の修正は、その部分をえぐり取り、別の木片に彫りなおしたものを埋め木するのです。版木に墨をしみこませ、2回目の墨を塗った上に和紙をのせ、竹の皮で滑りをよくしたバレンでこすって印刷していきます。
 保己一らは出版に向け気の遠くなるような地道な作業を重ねていきました。そんな彼に、突然、悪夢が襲いかかります。1792年麻布あたりから出火した火の手が広がり、保己一の家が全焼したのです。危険を察知した保己一は、早めに門人たちに避難を命じていたのでみな無事でした。けれども、『群書類従』の出版のさなか、家の中には今まで苦労して集めた書物や他家より借り受けた書籍があふれていました。避難する際にかなりの書物は運び出したものの、これまで苦労して作成した版木の多くは焼失してしまいました。焼け跡で絶望する門人たちに、保己一は「書物さえあれば、版木はいつでも彫れる」といってみなを励ましたと言われています。
 翌年幕府は保己一の願いを聞き入れ、和学講談所(わがくこうだんしょ)を建設する費用と保己一たちの事業を助けるために毎年資金の提供を約束したのでした。そして、経済的な後ろ盾を得た編纂事業は順調に進み、ついに1819年『群書類従』の刊行が完了したのです。編纂を始めてすでに40年が経過していました。

6 群書類従について

 現在伝わっている『群書類従』は、総冊数666冊、その版木枚数は17224四枚、両面刻なので、約3万4千ページ分となります。ここには、法律、政治、経済、文学から医学、風俗、遊芸、飲食などあらゆるジャンルの文献が収められており、「『群書類従』なくしては日本の文化の歴史を解明することは不可能だ」とまで言われています。
 保己一はこの2年後、76歳で亡くなっています。彼が設立した和学講談所は明治政府に引き継がれ、現在は東京大学史料編纂所となっています。

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 盲目というハンデを持ちながらも、抜群の記憶力と強い精神力を武器に、何事も前向きにとらえ、全力で生き抜いた保己一。保己一の懸命に生きる姿に心を打たれた人たちは、彼に協力や援助の手をさしのべずにはいられなかったのだと思います。すると、保己一はその人たちに心から感謝し、自分のできる精一杯のことを行ってその人たちに喜んでもらおうと、さらに一生懸命に生きる・・・。保己一とその周囲の人たちは、きっとそんなふうにお互い影響し合って、同じ時代を生きてきたのだと思います。

 保己一の生き様を通して、使命というのはただ訪れるのを待っていたり、探し求めたりして手に入れるものではなく、目の前のことに全力で取り組んでいくうちに、やがて人生の扉が開き、導かれるものなのかもしれないと思いました。いずれにしても、保己一のように、人が喜んでくれることの中に、自分が好きなこと、自分の才能が生かせる道を見つけられた人は幸せです。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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