#59 今さらながら、子どもが話し合いをすることの大切さを考えてみましょう
将来、世の中で社会生活をしていけるようになることを考えると、子どもたちが知識を増幅して今以上物知りになることは一つの要因ですが、それよりももっと重要な要因の一つとして、子どもたちを「話し合いができるようにする」ことだと私は思っています。
学校で子どもたちが話し合いを学ぶことがいかに大切な活動であるか私なりに考えてみました。
この文章は、個性尊重の教育の掛け声の下「みんなちがってみんないい」という一節に酔いしれて、そこから一歩も出ようとしなかった思考停止の教師が多かった時代に児島先生が警鐘を鳴らした文です。その結果、子どものわがままを許したり、社会性の訓練を行わなかったりして集団や学級のまとまりを失ってしまういわゆる学級崩壊という図式が見られたのです。学級が崩壊するということは、20年後、30年後の社会が崩壊することにつながります。
これでは教育とは言えませんし、このような環境で育った子どもは、他者への思いやりや人の心の痛みなど分かるはずがなく、人とのつながりが大切な社会生活に適応できなくなります。そのような教育を受けた子どもたちが大人になった時の社会は、おそらくギスギスしたささくれ立った非寛容な社会になってしまうのではないでしょうか。
重要なことは、先ずみんなが自分の意見や考えをしっかりと持つ。(この時点では「みんなちがってみんないい」と思います。)これを出発点として話し合い、よりよい結論を導き出すことなのです。色々な立場の人が自由に意見が言えるのは、民主主義の大前提でとても大事なことだと思います。しかし、個性重視だけに留まり、「共同社会への論議の発展」という視点が欠落した教育ではいけないのです。子どもたちは話し合いを通してそれぞれの意見や考えを比較検討したり、取捨選択したり、時には「折り合いをつける」ことを学んでいかなくてはいけません。
だから子どもたちがしっかり話し合いお互いの考えを深めていけるような授業をしていかなくてはいけないと私は思います。みんながそれぞれの意見を出し合い、そこから全体としてのよりよい方向性を見出していく、いわゆる個を足場にしてみんなで共有できるものを確認して前進していくこと、この一連の作業が「話し合うこと」にほかなりません。
近年、日本の社会も欧米社会と同じく人々の価値観が多様化してきて人々が様々な意見を持ち、発信できるようになってきました。それはそれとしてよいことだと思います。
しかし、物事はそれで終わりではありません。それはあくまでスタートであり、その様々な意見をどう集約して方向性を定めて進んでいくかが一番大事なことだと思います。その時に個の意見や少数の意見に執着するあまり、なかなか方向性が見いだせなかったり、本来のねらいからブレてしまったりすることが子ども同士の学級社会ではあり得ます。だからそれを修正するのが教師の役割だと思います。
こう考えてみると、子どもたちが話し合うということ、子どもたちに話し合わせるということは、子どもが大人に成長する過程においていかに大切な活動であるかがよくわかると思います。
教師は単に教科の内容をうまく教えることができればよいと言うものではありません。教師がまくし立てるように一方的にしゃべって教え込んでいけば、授業はあっという間に進んでいくでしょう。それで「教えたこと」にしてしまうのは、手抜き工事のようなものだと私は思います。時間がかかったとしても、子どもたちの話し合いを通して、個々の能力をいかに伸ばしていくか、そして他者と協調しながら自己実現を図っていける人間を育成していくことが大切な役割だと思うのです。
そう考えると学校の先生は極めて奥の深い、そして意義のある仕事だと思います。
来週から夏休みに入る学校が多いと思います。ゆっくり英気を養って、休み明けにまた子どもたちに元気を与えてください。最近私が癒やされた動画を紹介します。
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