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#82 大富豪とマサイの人々

 最近、心理学によって幸福の研究が急速に進んでいると言われています。ある著名な心理学者は様々な地域の人びとに対し、人生の幸福度を7点満点で採点してもらう大規模な調査を行いました。その研究結果が発表されるや世界に衝撃が走ったのです。  

 アメリカのビジネス誌「フォーブス」に載った大富豪たちの満足度の平均は「5.8ポイント」だったのに対し、最も貧しいといわれるマサイ族(アフリカの遊牧民族)の人たちが、なんと、わずか0.1ポイント差の「5.7ポイント」だったからです。

 この事実は何を意味しているのでしょうか。年収という視点でみれば、世界的大富豪は約1兆円、マサイの人々は約8万円。(月収ではありません8万円が年収です)マサイの人々の年収を少し水増しして10万円にして計算しても、その差1000万倍です。4千年前の縄文時代の 日本人は、マサイの人々と同じような生活をしていました。現代の大富豪と、4千年前のような狩りや漁の生活をしていても、満足度の差がわずか0.1ポイントとすれば、「一体、人類4 千年の努力と工夫は何だったんだ」ということになります。 

 わたしたちの多くは「富(お金やモノに恵まれている)」=「幸福 」 「貧(お金やモノに恵まれない)」=「不幸」という判断基準を持ってしまっていると思います。もちろん口ではお金で買えない幸せがあると誰もが分かって言っていますが、日々の生活の中で知らぬ間に「富(お金やモノに恵まれている)」=「幸福 」 「貧(お金やモノに恵まれない)」=「不幸」というものさし(判断基準)に支配されてしまった考え方で判断をしてしまっているのではないでしょうか。
 この判断基準は、言い換えると、「幸福」は富を得る・お金やモノに恵まれているという条件のもとに成り立つものである、ということになります。

 もしこの判断基準が正しいのであれば、世界有数の大富豪たちは「この条件をすべて満たしている」といえるので7点満点中、大富豪(年収1兆円)の人々は誰もが7点満点と答えるはずです。「幸福度 5.8」 ということはあり得ません。しかし、実際は満点より1.2ポイント低くなっているのです。

 そして、その反対に「すべて満たしていない」ともいえるマサイの人々の(年収8万円)「幸福度 5.7」という結果もあり得ないということになるはずですが、実際には大富豪よりわずか0.1ポイント低いだけです。

 ですから、ここでわかるとても簡単なことは、
わたしたちが「幸福」であるかどうかに、条件は何も要らないということ。
そして、そもそも「幸せ」とは、個々の「心」の状態のことをいうので
たとえどんな状況であれ「心」が「幸福感」で一杯に満たされていれば
その人は「幸福」でいられるということ。地位、名声、財産、ファミリー、大きな屋敷、高級車、宝石、豪華な衣装、豪勢な食卓が日常的にあったとしても「幸福感」がなければそれらは全て色褪せてしまい「幸福」とはいえないということです。

 ですが、わたしたちの多くは「幸福」になるためには、「条件」が必要だと勝手に思い込んでしまっています。

 収入が多くないと「幸福」になれない。

 いい結婚をしないと「幸福」になれない。

 家を持たないと「幸福」になれない。

 子どもを産まないと「幸福」になれない。

 円満な家庭を作らないと「幸福」になれないなどなど。

 それらを満たさない限り「幸福」にはなれない、と思い込んで日々あくせくしているといっても過言ではありません。

 しかし、そういったものは全て相対性の世界の話であり、本当に年収200万円だと「不幸」で、400万円だと「幸福」なのでしょうか?年収400万円の人は600万円の人と比べると「幸福」度は落ちるのでしょうか?じゃあ年収1000万円の人は非常に「幸福」なのでしょうか?そして、この論法でいいますと「年収1兆円という人は超「幸福」なのでしょうか?」という話になってきますが、最初に述べたように年収1兆円を超える大富豪でさえ7点満点中「幸福度 5.8」という結果なのです。

 「年収1兆円だって「幸福」じゃない、まだまだ足りない。」と思っている強欲な人も世の中にはいると思いますし、今の世の中には結婚していても「幸福」じゃないと思っている人や、 家を持っていても「幸福」じゃないと思っている人、子どもがいても「幸福」じゃないと思っている人、 家庭を築いていても「幸福」じゃないと思っている人は大勢いると思います。

 ですから、アレコレと長々と書かなくても、ここまでお読みいただければ「幸福」になるために「条件」は必要ではなかった。結局「幸福度」とは個々の「幸福感」つまり「感じ方」であることがお分かりいただけるのではないでしょうか? 

 「◯◯◯◯ であれば、自分は幸福になれる。」この条件づけこそが「不幸」の始まりです。なぜなら、その条件に囚われてしまうと、その条件が満たされない限り、自分は「幸福」にはなれないとずっと思い込み続けなくてはいけなくなってしまうからであり、上にも書いたように「幸福度」とは、個々の「感じ方次第」なわけですから、その「感じ方」が、いつも満たされない気持ちで日々を送るということになってしまうからです。

「東大に入ったら人生楽しい」

「年収3000万円あれば人生が変わる」

「高い社会的ポジションが得られたら自分が変わる」……。

このように「何かを手に入れたら幸せになれる」と思ってしまうのが普通の人々の考えですが、残念ながら、そのような幸福は、長続きしません。

 お金や地位、学歴などが手に入っても、その瞬間は有頂天になりうれしいと思いますが、ちょっと時間が経つと「まあ、こんなもんか」となってしまうのではないでしょうか。手に入れた直後はまわりからもチヤホヤされて調子に乗るかもしれませんが、心の中はどんどん冷めていくはずです。それは、そういうふうに脳が感じるからです。刺激は、すぐに慣れてしまうものです。「これは新しい!」と思っても、毎日それが続くと退屈になるのが普通の人間です。すべての物事で、それが当てはまるのではないでしょうか。

 では、「持続する幸福感」とは?これは、何か大きなことが自分の身に起こり、有頂天になるようなことではありません。子育てで少しずつ積み重なっていく幸福感とか、日々の暮らしの中でちょっとした料理の工夫とか、学校や会社の中で長期的にやり続けたことが少しずつ芽が出て成長していくとか。ささいなことの中に、じわじわと持続する幸福感があります。それは派手さはありません。周りの人から「すごい!」と驚かれることや注目されることがないようなものの中に、それは宿っているのだと思います。そして、それを幸福だと感じ取れることのほうが、何かを手に入れたり、大成功することより大事だったりします。私が言っていることは、決して新しいことではありません。昔からそうなのだと思いますが、ネットが普及してさまざまな情報にアクセスできるようになってから、余計に誰かと比べて相対的にしか自分の幸せを評価できなくなってしまう傾向が強くなってきているように思います。偏差値、就職先、年収、さらには職場での地位等・・・。
 もうおわかりかと思いますが、日常の些細なよいことに幸福感を感じられない人は、幸せになれない気がします。何かを手に入れたり、大成功するような幸せはそのピークとともに消えていってしまうものですから。

 コロナになって、当たり前だと思ってたことが本当に幸せなんだと痛感する事が多くなりました。大事な事は日々の生活の中で幸せに気づく感度を上げていくことではないでしょうか。

   こころでみなくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ ー星の王子さまー

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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