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#54 失敗が許されない社会VS何度でも挑戦できる社会

 みなさん、こんばんは。いつも私の記事にお立ち寄りいただきましてありがとうございます。私がいつも心がけていることは、記事を読んで下さった人々が、「この記事読んでよかったなあ。」と思っていただけるようにすることです。この発想は、担任として学級を持っていたとき、保護者が授業参観や懇談会、面談等で学校へ来たときがチャンスととらえ、「今日学校に来てよかった」と思ってもらえるようにいつも心がけてきたことからスタートしているのです。

 おかげさまで記事を書き始めてから3ヶ月を経過しましたが、すでに4000名(延べ)の方に立ち寄っていただき、フォロワーの方も20名を超えてきました。本当にありがたい限りです。自分がどこかの誰かの役に立っていると思えることで自分も元気をもらえます。引き続きよろしくお願いします。

 

 アメリカのGE社の家電製品開発会議での有名なエピソードを紹介します。

 「トースターって、使わないでしまっておくと、ネズミが寄ってきますよね。衛生上よくないから、ねずみ捕り付きのトースターってのはどうでしょう?」

 と、会議でふざけたアイディアを出す社員がいました。

 それに対して上司は「何ばかなこと言っているんだ!もっとまじめに考えろ!」と、普通の日本の会社の上司ではいいそうですが、その会社の上司はちがっていました。

 「トースターって、使わないでしまっておくと、ネズミが寄ってきますよね。衛生上よくないから、ねずみ捕り付きのトースターってのはどうでしょう?」

 「くだらないアイディアだね。ところでどうしてネズミが寄ってくるのかな?」と上司はくだらないアイディアを出した社員に質問したそうです。

 すると、「パンくずが残っているからですよ。・・・

あっ!!! だったら、パンくずがたまらないトースターってのはどうでしょう?」

 「そ、そ、それだよ! それそれ」

 こうして生まれたGE社のトースターは世界中で大ヒットしたそうです。


 アメリカでは、その分野の常識を知らないいわゆるド素人を会議に加えて、自由に発言してもらうという会議の手法があるそうです。「ODOMAN(オッドマン)=その場の常識を知らない半端者」と言うそうですが、一見突拍子にないことをどんどん発表してもらい、発想を広げていくのです。常識の殻を破って新たのものを生み出す。これは日本人社会のような同質の者ばかりでは絶対あり得ないことだと思います。

 話は変わりますが、学校の授業でも、こんな事があると思います。作家の司馬遼太郎さんが中学校の英語の時間に先生に「ニューヨークってどういう意味ですか?」と手をあげて質問したところ、「そんな馬鹿な質問はするな!」と怒鳴られたと言っています。そしてそれ以後英語の授業が大嫌いになったと述懐しています。おそらく、英語の先生にしてみたら、ニューヨークは有名な都市なので、そんなわかりきったことを質問するな、というつもりだったのでしょう。しかし、司馬さんは横文字をカタカナに置き換えておしまいというタイプの少年ではなかったようです。ご存知のように、「ニュー」は「新しい」という意味ですから、どうして「ヨーク」に「ニュー」がついたのかな?と思ったわけです。
 (余談ですがニューヨークの前の名前は「ニューアムステルダム」でした。要するにオランダ人が先に入植したのですが、後から来たイギリス人に駆逐されてしまったため、地名まで変更させられたという歴史的背景がそこには隠れています。)
 それはちょうど、東京はなぜ東の京と書くのかと質問するようなものです。つまり、ここには言葉の歴史を尋ねる態度が見て取れるわけですが、英語の先生にしてみれば、「授業に関係のないこと」を突然尋ねられたように思えて腹が立ったわけです。

 司馬さんの質問には、子どもなら誰もが持っている健全な好奇心が認められますが、このエピソードは、子ども達が持つ好奇心で学校の授業に関係のないものは、力量のない先生には簡単に摘み取られてしまう危険と背中合わせだということを物語っています。またここには子どもなりの自由な発想や興味関心、本来勉強とは何か?という問題を考える上で重要なヒントが隠されていると思います。

 私が6年の社会科の授業で奈良時代学習の導入で奈良の大仏の大きな写真を提示したところ、多くの子どもは、

 「なぜこんな大きな大仏を作ったのか?」

 「1000年以上の昔にどうやってこの大仏を作ったのか?」

 といった授業者が想定した疑問を持ってくれますが、当然そうではない子どもがいるわけです。

 「先生、どうして大仏さんは頭にパーマをかけているの?」とか、「あたまのぐるぐるはいくつあるのかなぁ」など授業と直接関係ない疑問を持つ子どもたちがいました。それが私は普通の教室だと思っていました。おかげで授業が横によこにそれることがしばしばでしたが、子どもたちには大好評でした。そういう教室の方がある意味活気があり、「健全」だと私は思っていました。私は司馬さんの英語の先生のように切り捨てるようなことはしないで、「面白いところに気がついたね。(と一旦褒めて)あれは螺髪(らほつ)というんだよ。492個あるそうです。昔の仏様が天然パーマだったかどうかはわからないけど、インドの人だったから縮れ毛だったのかもしれないね。」とさらっと説明して本人を納得させて、本題に話題を向けていきました。確かに先生の側からしたら余計な質問かもしれませんが、子どもが感性で感じ取る疑問や目の付け所と言ったものは、必ずしも先生が授業を進めるのに都合のよい気づきばかりとは限らないのです。それをどうやって授業の中で修正していくかは先生の力量と教材研究にかかっていると思っていました。

 教室で先生が子どもたちに正解ばかり求めるような授業では、子どもたちは自由に興味を持ったり、自由な発想を思い巡らすことはできません。だからいつも先生が進めようとしている授業の意図を忖度できる子どもや塾等で前もって「知っている子たち」が発表して目立つようになってしまい、他の子どもたちは蚊帳の外に置かれ、聞き役に回ってしまい授業の主体者から傍観者になってしまうのです。

 先生方、子どもたちがトンチンカンでも自由に自分の考えを言える教室の雰囲気を是非授業の中で作ってあげてください。

 失敗が許されない社会。

 何度でも挑戦できる社会。

 私たちの国は今どちらの側に進んでいるでしょうか?

 子どもたちがまちがうのを恐れる教室。

 言いたいことを言い合える教室。

 どちらの教室が子どもは伸びると思いますか?

 「失敗したらダメ」

 「失敗しても大丈夫」

 人はどちらの方ががんばれるのでしょう?


 最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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