#65 3つの奇跡を起こした日本人 2つめの奇跡(犠牲者ゼロの撤退作戦)
オトポール事件から4年後、1942年に樋口は札幌の北部軍司令官に赴任しました。すでに前年1941年12月太平洋戦争が開戦し、日本は熾烈な戦いを繰り広げていました。緒戦で破竹の勝利を続けた日本軍でしたが、1942年6月のミッドウエー海戦での大敗を境に戦況は暗転し、次第に悪化していきました。ミッドウエー作戦と並行して、日本は北の守りを固めるため、北米アラスカに連なるアリューシャン列島の西端に位置するアッツ島とキスカ島を占領していました。(下図参照)
北の最前線であるアッツ島の守備隊長として、樋口は山崎保代大佐を任命しました。冷静沈着で稀代の作戦家と言われた人物です。1943年4月遙か遠いアッツ島に着任する山崎大佐に対し、樋口は「アッツ島にことあらば、万策を尽くして増援する」と固く約束しました。翌5月12日、ついに米軍がアッツ島に押し寄せてきました。その兵力はおよそ12000人。これを山崎部隊はわずか3000人で迎え撃ちました。一報を受けた樋口は早速、増援部隊を送る準備に取りかかりました。しかし、大本営から届いた電報に樋口は耳を疑いました。
「都合によりアッツ島への増援を放棄する」
実際のところ、このころ南太平洋での兵力の損耗が激しく大本営はアリューシャン列島に部隊を回す余裕はなかったのでした。大本営にしても苦渋の決断でした。見捨てられ、孤立無援で死闘を続けている山崎部隊のことを考えると、樋口は身を引き裂かれる思いでした。5月21日、「何が何でも支援する」と約束していた樋口は、まさに断腸の思いで増援ができない旨を打電。電文の最後を「本官の力及ばざること、誠に遺憾に耐えず、深く陳謝す」と結びました。翌日、山崎大佐からの返電が入ります。そこには恨み言など一切なく、武人としての覚悟が綴られていました。
「戦する身、生死はものより問題にあらず。今後、戦闘方針を持久戦から決戦に転換し、なし得る限りの損害を敵に与え、九牛の一毛ながら戦争遂行に寄与せんとす。その期至らば、将兵一丸となって死地につき、霊魂は永く祖国を守ることを信ず」これを受電した司令部には、無念の嗚咽が広がったと言われています。
圧倒的な兵力を誇る米軍でしたが、山崎部隊の予想を上回る抵抗で激戦になりました。米軍の連隊長が戦死するほどの損害を出し、師団長は解任され、米軍は歩兵連隊の増員を余儀なくされました。しかし、あまりの兵力の違いには山崎部隊の奮戦も逆らえず、ついに全将兵合わせて守備隊はわずか150名となりました。5月29日、一人一人の奮闘をねぎらった山崎大佐は、樋口に向けて決別電報を発しています。
「今夜、闇に乗じて全員適中に突入する。我らは国家民族の不滅を信じ、散華す。閣下の武運長久を祈る。天皇陛下万歳。機密書類は全て焼却。これにて無線機を破壊する。」
このあと山崎部隊は全員で突撃を敢行しました。米軍の「降伏せよ」の呼びかけの中、守備隊は突き進みました。その先頭に右手に軍刀、左手に日の丸の旗を握り、足を引きずりながら進む山崎大佐の姿を認めた米軍将兵たちは震え上がったと言われています。一斉砲撃が集中し、17日間の激しい戦闘は終わりました。戦死者2638名を出した我が国最初の玉砕でした。
山崎との約束を果たせず、多くの部下を死なせてしまった樋口は、自責の念から体重が80キロから60キロまで落ち、頬がこけて別人のように容貌が変わってしまいました。戦後書かれた樋口の手記には、「私は私の長い生涯で、山崎に死んでくれと言ったあの時ほどつらかったことはない。(中略)部下に死ねと命令した上官が、おめおめ生きてはいられないと思った」と、当時の苦しい心境が記されています。しかし、この後こう続きます。「けれども、私は死ねなかった。しなければならない仕事が、あったからだ。キスカ部隊の撤退である」アッツ島の放棄を受け入れる代償に、樋口はもう一つの拠点「キスカ島」を守備している将兵を全員無事に撤退させることを大本営に突きつけていたのでした。「アッツ島の二の舞は断じて踏ませぬ」と。
キスカ島の守備隊は5000人。この人数を米軍に一切さとられずに撤退させることは、容易なことではありません。何せこの一帯は、制海権、制空権共にすでに米軍に握られていたからでした。樋口は策を練りました。それは、北太平洋特有の濃い霧に紛れて、速度の速い駆逐艦で米軍艦隊の包囲網を突破して一気にキスカ島に突入して、守備隊員全員を一挙に撤収させるというものでした。
7月29日、ついに決行の日が来ました。午後零時、艦隊は前も見えないほどの濃霧を突いてキスカ湾に突入。わずか55分という短時間で守備隊全将兵を乗船させ、作戦は大成功でした。包囲していた米軍は、これに全く気がつかず、翌30日から総攻撃を開始しています。20000発もの猛烈な艦砲射撃の後、兵力34000人が一斉に上陸を開始。しかし、濃霧で何も見えません。存在しない日本兵との戦いに緊張して進軍し、あちらこちらで同士討ちが発生し、数百名の死者と負傷者数十名を出しています。霧が晴れて、米軍が見たものは、捨て置かれた武器と3匹の犬だけでした。完璧にしてやられた米軍は、この樋口のキスカ撤退作戦を「パーフェクトゲーム」と評しています。まさに奇跡の作戦と呼ぶにふさわしい快挙でした。「部下を一人も残さず生還させる」という樋口の思いが、世界大戦史に例を見ない奇跡の撤退を成功させたと言えるでしょう。
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