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ネコと暮らす

 緊急事態宣言を受けて僕が混乱したのは、明らかだった。
 従来の対人関係の仕方の無効化、身近な他者関係の変容、そして新たな関係構築の模索・・・。
 それは現実的な他者接触の減少の問題であり、家族との濃厚接触ともいえる距離感の問題であり、別の意味方向においては映像化された他者との出会いという問題である。どれもつながりを前提するグループ臨床家としての、およそ基本的な課題と言って良い。
 
 僕は妻とこの4月で小学校に上がった娘と、1匹のネコと暮らしている。都内の比較的のんびりとした土地柄の、小ぢんまりとしたマンションの一室で、決して豪華ではないけれど十分な暮らしだ。仕事やら研修やらといったあれこれを含めて僕も妻も互いのライフワークに干渉しない程度に、それでも年に1度は長期休暇で家族旅行をする、何の変哲もない、ごく一般的なダブルインカムの都市生活者であったはずだ。感染症の猛威が迫るまでは。

 家庭外での活動が減少し、行き場を失くした娘の面倒や家事に加えて、自宅で従事可能な作業をこなすという家庭内活動が相対的に増えて行ったのは、僕を取り巻く様々な事情を考慮すれば仕方のないことだった。当初は非日常が新鮮で「まぁ数日の我慢さ」くらいに構えていたけれど、しつこく迫る娘をたしなめながらこなす家事も仕事も、自宅でしか飲めないビールの味も、あっという間にうんざりだった。
 そんな僕自身の憂鬱や焦燥とは無関係に、いくつかの現実的な課題をこなす必要性は変わる事はなかった。現実はいつも、冷ややかである。
一抹の希望を抱いてオンラインのミーティングや飲み会やらを開催しては、「これが精一杯さ」と知的に了解しておく。こうしておけば、ネガティブな気分をしばらくは閉じ込めておくことはできるだろう。

 しかし、と僕は思う。オレは何かを見落としている。それもひどく基本的で、本質的な何かだ。そんな気がした。

 社会活動への参加は自己実現や自分の成長に役立ちはするかもしれないけれど、より有効であったのは、身近な他者と向き合う事を疎かにするのを正当化し、合理化する側面ではなかったか。人とつながる意味を追い求めながら、その行為自体が身近なつながりを希薄にしていたのだとしたら、つながりとは一体何だろうか。
 これまでの物語を描き出し、語らなければならない。そのことで、たとえ画面越しであったとしても他者とつながる本当の意味を、僕らは僕らの手で創出しなければならない。

                                 髙橋 馨

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