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新生・渋谷パルコに垣間見る、これからの寺のあり方


11月22日に渋谷パルコがリニューアルオープンした。2016年に建て替えのため一時休業してから、3年が経ったことになる。早い。工事中には、仮囲いに大友克洋 x 河村康輔による『AKIRA』のアートウォールが用いられ、新生パルコの出現をいやが上にも期待させていた。そして先日めでたくの再開となり、さっそく店舗に足を運んでみた。

思い出のパルコブックセンター

テナントは刷新され、ジャパンカルチャーや「TOKYO」を前面に押し出しているのだなと感じる一方、あぁかつて地下にあったパルコブックセンターは無くなったのかと感傷に浸っていると、ライター・コメカ氏による、興味深い記事を見つけた。

新生・渋谷パルコに本屋がない……35歳・書店店主の私が危機感を覚える理由(12/7付・文春オンライン)

10代~20代の多くの時間を渋谷で過ごした筆者にとって、この記事には頷けることばかり。当時は本屋といえばパルコブックセンターで、書店への足が遠のいてしまった今、「人生で通った本屋ランキング」があるとすれば、間違いなく当時足しげく通ったパルコブックセンターが1位だろう。あれほど利用していたその要因は、コメカ氏も指摘する「中間領域的な本屋」の機能にあったように思う。

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「中間領域的な寺」という位置づけ

この「中間領域的な本屋」にまつわる話は、質こそ違えど、そのまま「中間領域的な寺」にも当てはまるのではないか。

大規模寺院、つまり首都圏における成田山や川崎大師、本門寺のような大本山級の寺はオープンソースとなっていて、広く一般の参拝者が仏教(宗教)へアクセスすることができる。
片や小規模寺院(ここでは「檀信徒のみが利用する」の意味で用いる)では、そこで一般の参拝者が仏教に接するというのは容易ではない。

では、中規模寺院はどうか。「家族で切り盛りする小規模寺院だが、間口は一般に開いている」という寺から「大本山級ではないがオープンである」という寺までそれこそ千差万別ある訳だが、実はこの中規模寺院という形態には、大きな可能性が潜んでいるのではないか。
それこそ、寺の本来的な存在意義であった「宗教心の昂揚」であろう。

仏教を欲する人々はどこへ向かうか?

現代の日本にはさまざまな宗教が並存するようになった。仏教も、伝統教団のものから新宗教、タイやミャンマー等をルーツとするもの、マインドフルネスの流れも含まれるかもしれない。ひとくくりに「仏教」と言っても、その内実はおよそさまざまで、インターネットやメディアを介してさまざまな教えや教理、哲学にであうことが可能だ。
仏教への興味関心が行動となって表れたとき、仏教的・宗教的空間に実際に足を運んでみようと思ったとき、現実に出入りできるパブリックスペース(場)として、大規模寺院は大きな役割を果たしている。先述したようにそれら寺院はオープンソースとなっていて、広く一般の参拝者が仏教(宗教)へアクセスすることができるからだ。

そこで満足できればいいだろう。だがそこでは物足りず、「仏教の核心はどこにあるのか?本当のところ、仏教は何を説いているのか?」探求が始まったとしたらどうか。
人々はそこから手さぐりに中規模寺院へと流入していくことになる。ご朱印ブームもこの文脈の中で捉えることができるだろう。

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時代は「中間領域的な寺」へ

先に紹介した記事の中でライター・コメカ氏は

1,000坪クラスの大型店になると売り場面積が広大過ぎて、ひとりの客が一度の来店で店舗全体をゆっくり回遊することは難しい。数十坪単位の小型店では、売り場のなかで来店客や従業員の姿が互いに可視化され過ぎるため、匿名的に店内を歩きくつろぐことは困難だ。中規模サイズの店舗はこの2つの難点を回避できる。

と書く。我田引水して要約するならば、

「大規模寺院ではゆっくりと心を落ち着かせて参拝することは難しい。腰を下ろしておまいり出来たとしても、そこで自らの内面を見つめるような、内省的な、思惟を深めるような、生死の一大事について向き合うような位相にはなりづらい。片や小規模寺院では、寺のスタッフや仏像との距離が近すぎる。<ゆっくり独りの時間をとって>各各のペースを担保されたい時には、中規模寺院を訪ねるべし」

ということになる。つまり参拝者自身が本当に仏教にアクセスでき、自身の宗教性の推進を図りたいのならば、中規模寺院がもってこいなのだ。

これからの寺に期待したい

先述したように、インターネットやメディアを介せばさまざまな仏教にであうことができる。とはいえそれらは、実際に自らの体験として足を運ぶことのできる「寺」の役割を担うものではない。そういった意味でも、今後ますます多くの人が中間領域的な寺を求めるだろう。

筆者がイチ僧侶として同業者に申し上げたいこと、それは、「寺は、中間領域的な場が求められているというニーズにもっと自覚的であるべき」ということに尽きる。寺は参拝者の宗教性が自然と促進されるような、そうした場づくりを心がけていく必要があるのだ。今後の寺院運営のカギはそのあたりに潜んでいると言っても過言ではないだろう。


Text by 中島光信(僧侶・ファシリテーター)

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