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人間をやめることにした(自問自答ファッション・コンセプトの話)

私事ですが誕生日が1月2日なので年末年始、特に元旦は新しい年の始まりと同時に年を重ねる前日でもあります。
ついでに親族関係の諸々もあるので、色んな意味で来し方越し方を考えるタイミングです。
そんなわけで大晦日から考えていたことをつらつらと。
あまり明るくはないです。



大晦日の夜、ADHD向けのパワーハック、及び、ASD向けのパワーハックというハッシュタグがものすごい勢いで流れていた。ADHDのハックがガジェットを使ったものが多いのに対し、ASDのそれはコミュニケーション、もっといえば「普通の人」への擬態に近い内容が多くて辛いという指摘も併せて流れてきていた。
診断を受けたことはないけれど、おそらく自分にはASD的な要素があるのではないか……、と結構前からわたしは思っている。とはいえADHD的ハックもしばしば参考にさせてもらっている。諸々に恵まれて今の所ものすごく困ってはいないけれど、偏りは結構ある方だよな……という感じだ。

家族、あるいは一族の話

わたしの父は長男だ。
だから、というわけではないのだろうけれど、わたしが小学生の頃から祖母と同居している。年末年始、夏休みには父の兄弟とその家族がわたしの実家、もとい祖母のもとに集まってくるのが毎年のことだった。幼い頃から当たり前だったこの環境が、実はとても珍しいものだと知ったのは随分あとになってからのことだ。
細田守監督の「サマーウォーズ」というアニメ映画がある。主人公がほんのり恋心を抱いていたヒロインの実家は各界の重鎮とコネがある祖母と、それに従うこれまた各界で活躍する親族の男たちで構成されていた。世界の危機のため男たちがそれぞれの持ち場で「戦う」一方、男たちの妻は台所に集まり、大勢の親族のための食事を作り続ける(ただし、その分担状況や家事へのスタンス等には大きな差がある)。
初めてこの映画を見た時、わたしは台所に集まる女性たちの描写やゴッドファーザーならぬゴッドグランドマザーである祖母の描写のリアルさにうわっとなった。ついでに言えばこの映画について監督が、妻の実家に行ったら大家族でその中で過ごす体験が自分にはとても新鮮かつ心地よかった……といった趣旨のことを発言していて、そりゃ(男の)お前はそうだろうよ……! と叫びたくなった、ということで察してほしい。

幼い頃。年末年始や夏休みが近づく度、母親が神経を尖らせ始めるのが嫌だった。たくさんの親戚を泊めるための掃除、寝具の準備、泊まっている間の調理、食器洗い、親族との会話。夕食の席で不機嫌な顔をした母親が諸々の仕事の負担を父親に訴えることはしょっちゅう、時にそれは夜になっても続く。わたしの母は「長男の妻」だった。
わたしは娘で、従兄弟たちの中で最年長だった。不機嫌な母が嫌なのと直接呼ばれることもあって食事のあとは皿洗いを手伝い、大人たちの歓談の中に混ざって笑っていた。時間が経つに連れ少しずつ変わっていったが、幼い頃、父の兄弟の女親族たちに求められるものとわたし及び母のそれには結構差があった、と思う。年少の従兄弟たちがお正月に親族の集まりを欠席して初売りやライブに行くと聞いた時はびっくりしたものだ。家や親から離れること、反抗することを、わたしは思いつきもしなかった。

母からはよく愚痴を聞かされた。よく言われたのが、父方の親族と母方の親族とでは性格が随分違うのだということだ。父方の親族はみな学者気質で(これは実際そうだと思う)、それなりの規模の店を営み社員の食事の世話などもしばしばしていた母方の親族が当然のように気を遣うところで気を遣わないのだ、と。そしておそらく、わたしは父方の親族の気質が強かった。
「普通の」女の子なら当然有していると母が思っていた、お洒落や家事や手芸など手仕事への興味、クラスメイトや母親に対して当然あるべき同情や共感の身振りがないことはしばしば指摘された。同じ性格でも男の子だったらあなたはもっと生きやすかったのではないか、と言われたこともある。言いたいことはわかるので苦笑するしかない。
わたしが最初に擬態しようとしたのは「母に似た娘」で、だけどそれはどうしたって失敗する、失敗しているのは明らかだった。

自分は無神経で、気が利かず、冷淡なのだとずっと思っていた。
からかってくるクラスメイトが怖くて離人感(という言葉は高校時代に知った)に逃げ込みながら、わたしは人間ではないのだ、と言い聞かせていた。

人間になりたい、というウィッシュリスト

気が効いて、心が優しく誰にでも気を配れる人間にならないと世の中には受け入れてもらえないのだとずっと思っていた。でなければそうした性質を持たなくても問題ないほどの、恐ろしく抜きん出た能力があるか。
よくある話だけれどわたしは「母に似た娘」と「進学校を出た名誉長男」、およびその両方になることを求められていたのだと思うし、前者が明らかに無理だから後者になろうとしていたのだと思う。

と、同時に。この願望は当時のわたしの中で「普通になりたい」と表現されていた。

つまり、moonplanerさん言うところの自己否定からのウィッシュリストというやつなのだった。恐ろしいことにわたしのウィッシュリストは非常に強固で、進路選択にも職業選択にもばっちり影響を与えた。君は進路希望がはっきりしているから何も心配ないね、と教師に言われる程度には。
しかしウィッシュリストに書いたような人間に実際になれるわけもなく、就職活動、および働きだしてからも自己否定は続いた。しかも就職できてようやく息を吐いたと思ったら、世の中の同年代は当然のように結婚を視野に入れ始めているのに気付いた。世の中は就職だけでなく「それ」も評価指標に含めていることも。

結婚?
気が利かず、無神経で、冷血な人間であるわたしが? 
それらを隠してようやく就職し働けているわたしが?

……その後弟が結婚し、わたしの結婚についてはその後親と色々あったのだけど、とりあえずそこは割愛する。

「普通」でなくても

2023年は対人関係のトラブルがずいぶん多かった。おかげで、世の中には自分が思っている以上に、自分より無神経な人がたくさんいるのだなと、文字通り身を持って体感した。
その後、コロナに罹患した。後遺症になり、10日ほど寝たきりになった時期があった。
今でこそ10日ほど、と書けるけれど当時は先のことなどわかるわけもなくて、目が覚めたら元の体に戻っていないかと祈りながら眠って起きては絶望していたし、毎日のように泣いていた。やがて、何もできなくてもわたしには価値があるはずだ、こうして生きているだけで十分できることをやれていると言い聞かせるようになった。

大晦日のASD向けハッシュタグの、愛される変わり者を目指せといった趣旨のハックを眺めながら、もういいじゃないかとふと思った。
かつて願っていた「普通」にはなれない。仕事でのミスやうまくいかないこともあるし、これからもあるだろう。欠点はあるしなくならないだろう。そもそも願っていたあれは「普通」では全然なかった。
でもそれはわたしが人間ではないとか、なにかの資格がないということではない。わたしにはわたしなりの思いやりや感情があって、友人がいて、できることもそれなりにある。
この社会で生きていける愛される変わり者……になれているかは知らないしもうちょっと色々小技や生活技術を身に着けていたほうが安心な気はするけれど、少なくとも友人はいる、それは確かだ。

「人ではない」というのは、かつて、何も感じないために言い聞かせていた言葉、周囲から変わり者扱いされ「仲間」に入れない自分を責めるための言葉、空想の世界がわたしを指差し嗤うための言葉で、当時のわたしはブリキの木こりやウンディーネのような存在に感情移入していた。
けれどわたしは「人になりたい」のだろうか。
年の瀬にチカキサダのチュールスカートを試着しながら、違うな、と思った。理解してくれる仲間がいたら嬉しい、いてくれて嬉しい、ありがたいと思う。けれど、それはわたしではない存在になりたいということではない。わたしを否定する場所に無理にいることはない。変なの、と言われたら言った相手を睨み返して怯ませたい。
「人ではない」。
空想の誰かに指さされるのでなく、現実逃避でもなく。地に足をつけつつ、しかし自らそのように名乗るのならば、その意味合いは変わってくる。
それが何だ。少しも寒くないわ、というやつだ。

わたしは、

自問自答教室で作ったコンセプトは

自分があって存在感があって凛とした、人にショックを受けさせる作家

だった。
昨年末、当時の記事を久しぶりに読み返しつつ当時のことを思い返していたのだけれど、この中で一番自分の(思いがけない)本音が出ているのは「人にショックを受けさせる」だと思う。読者としては優しい物語も好きだけど、愛される作家、人を癒やす作家になりたいとわたしは思っていない。

わたしを侮るな。
わたしを恐れろ。
わたしは、本当は恐ろしい存在なのだから。

自分があって、存在感があって、凛とした……いずれも似たようなことを言っているなとは以前にコンセプトをこね回したときにも思ったけれど、つまりはそういうことなのだと思う。
何だかんだで教室で出たコンセプトは原点なのだと思う。

北の森に住む、自分があって存在感があって凛とした、人にショックを受けさせる人ではない作家

だから、今年のコンセプトはこれでいこうと思う。

今年何をするか、何をしたいか。
ウィッシュリストに何を書くかは明日考える。


祖母が認知症になり、施設に入り、それと同時期にコロナが始まって、数年前から親族会議はzoomで一時間ほどになった。親世代はそれとは別にお茶を飲みつつ話したりしているようだが、わたしは欠席している。一時期は親や親族と合うだけで酷い腰痛になっていたが、それも最近では随分楽になってきた、と思う。
楽になった、と母は言う。お正月の料理とかいろいろな準備とか、もっとずっと前から手抜きをすればよかった。だけど何十年もそれができなかった。性格的にできなかったのだと。
ここまで来るのにいろんな条件が必要だったのだと思うし、母がそういう性格になったのにもいろんな理由があるのを知っている。昨年の対人トラブル含め、もういい、と思っても簡単にはいかないことも。

それでも変わることはあるし、時にそれは変わるというより、本来の姿に戻ることなのかもしれない、と思う。

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