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「狂言劇場その9」より『舟渡聟』

2021年6月25日に上演された「狂言劇場その9」のBプロ、古典の『舟渡聟(ふなわたしむこ)』と新作狂言の『鮎』という瑞々しい組み合わせでした。船頭は野村万作先生、聟はお孫さんの野村裕基さん、姑は岡聡史さん。35分を超える大曲ですが、前半と後半のコントラストが鮮やかで、船頭の芸の見せ場が続くので何度見ても見飽きない名作だと思います。

最初に登場するのは、聟。ピンクの衣装が初々しく、肩に担いだ棒に、大きな鯛と酒樽がぶら下げられています。酒樽は下がり気味で、なんだか重そう。彼は京あたりの者。今日はお日柄がいいので聟入りに行くのです。

聟入りって聞き慣れない言葉ですが、昔は嫁をもらった後に初めて舅の家に挨拶に行く儀式。狂言では「聟入りもの」というジャンルがあるくらい、聟入りをテーマにした作品が多々あります。『舟渡聟』は、その中でもよく上演される名作。ただし、聟入りものは、「聟が世間知らずでいろいろ失敗する」のが定番なのに、『舟渡聟』はそうじゃないところが面白い。たしかにこの聟、世間慣れはしていなくて堅いところはあるけれど、よく考えて行動する真面目な若者のようです。

さて、聟は琵琶湖畔の大津松本から、舅の住む矢橋(やばせ)に向かうため、渡し船を探します。するとそこに、船頭が1人。「今朝、客を乗せたので帰りも乗せたいなあ」などと言うところに聟が声をかけ契約成立。早速渡し舟に乗り込もうとします。まず、荷物の鯛と酒を預けて、ヒョイと勢いよく乗り込もうとすると、舟がグラリ。船頭は若者に「静かに乗れ! 舟に乗ったことがないのか」と叱りつけます。
小舟を岸に寄せる様子、舟の突然の揺れは、棒切れ1本を持った船頭の最初の見せ場。よーく見ていると、若者が舟に乗り込む前に手渡した酒樽を見る目つきがアヤシイ。そうです、この船頭は無類の酒好き。

若者が舟に収まると、船頭は早速、小舟を漕ぎだします。「どこからきたんだ。そうか、京か。すると、その酒は京酒じゃな、じゃあ1杯くれ」。
まったく、どうしていきなり「くれ」になるんでしょう。若者もややあっけにとられますが、「酒はきっちり詰めて(=たぶん、揺れて品質が落ちないように)あるし、贈り物だからだめだ」と、きっちり伝えます。聟ものの聟さんたちの中では、しっかり度ナンバーワンじゃないでしょうか。

しかし、船頭も負けていません。「中身が足りなくなったら、これだけある琵琶湖の水を詰めればいいじゃないか」「今朝は嵐で手が冷たくかじかんでいる。酒を飲んであったまりたいなあ」などと口説き、しまいには舟を揺らして「ごちそうしろ!」と迫ります。

若者は困り果て、「仕方がない、盃を出せ」というと船頭「そんなものはないからこれに注げ」と、垢取り(=小さなスコップみたいな道具。舟に入った水を汲み出すのに使う)を差し出します。腰から外し、湖の水でさっと洗うと言う芸の細かさが素敵。
聟はなんだかなーと思いながらも1杯だけ注ぎ、すぐに樽に栓をしようとするのですが、船頭が飲み干す方が早かった。「数が悪いからもう1献」とねだり、次は「お前も飲め」。なんだかもう、飲めればいいや、みたいな感じ。若者が「もうダメ」と断ると、漕ぐのをやめて流れるに任せます。船頭の職権乱用、極まれり。もう1杯を注ぐと、お酒はほとんど残っていないみたい。ようやく矢橋についたので、若者はプリプリしながら舟を降り、舅の家に向かいます。舟に乗る前は重そうだった酒樽が、軽そうに見えるのがまた素晴らしい。

舅の家についた若者は「聟が来ました」と姑に呼びかけ、家に通してもらいます。姑は「夫は出かけているけど、そろそろ戻ります」と言い、聟は家で待たせてもらいます。しかし夫が一向に帰ってこないので、姑が探しに行くと、なんと夫は道端でグウグウ寝ている。この夫(聟にとっては舅)がなんと先ほどの船頭! ここが、この作品のキモ。

姑が「どうして道端で寝てるのよ、今、聟さんがきてるのよ」と揺り起こすと、舅は「なんじゃ、京からきたのか? いつきた?」と妻に尋ねます。「ついさっき着いたのよ」という答えを聞いた瞬間、ピーンとくる舅。「なんだ、俺は聟の酒を飲んじゃったのか!」。そんなみっともないこと、妻にも言いたくないし、聟にだってバレたくない。「今日は聟に会いたくなんだ」などとゴネますが、妻に「何いってんの!?」と詰められ、ついに先ほどの出来事を告白。

妻は呆れながらも、「見た目を変えればいいんじゃない? そのヒゲ、そっちゃえば? 前々からむさ苦しいと思ってたのよねー」と提案。船頭は「これは俺の大事なトレードマークで、京都のお偉方が舟に乗る時だって、大髭の船頭とご指名があるんだ」などとくどくど言い訳しますが、妻には敵いません。エイっとヒゲをそられ、えーい! と、聟さんの前に連れ出されます。

ヒゲをなくし、袖で顔を隠しながら、聟の挨拶を受ける舅。舟でやりたい放題やっていた人とは思えないビビリっぷりです。聟が、「舅どののために、京都から酒と肴を持ってきました」と一献勧めると「お酒、飲めないんです。匂いだけでも酔ってしまいます」と必死に誤魔化そうとする。聟はピュアでまっすぐな視線で「変だなー、おかしいなー」という空気を出す。その圧迫感はなかなかのもの。気まずそうにしている舅にビシビシ刺さります。

さて、聟さんは少々お酒をいただいた後、「せっかくだから舅どののお顔を覚えたい。ちょっと見せてください」というと、舅、アワアワしながら「湖に住んでいて、強い風にさらされているもんですから、口ヒビ(口角炎みたいなものかな?)ができていて、みっともなくてお見せできません」となんとか逃れようとします。その側に寄り、聟が袖をエイっと除けると、そこに見えたのは、さっき見たばかりのあの顔! なんだー、そう言うことですか。そこで何も言わずにそっと下がる聟の優しさ。きまり悪いながらも、ばれちゃったか、という舅の何とも言えない空気。変に突っ込んだり、大声を出したりしないのがいいところ。聟「あなたのためのお酒ですから」とさりげなく口にするのです(こう聞こえたように記憶しているけど、違うかな)。

エンディング。聟が「そろそろお暇します」といい、どちらからともなく、舞が始まります。お日様、梅の実、鞠などが登場する丸いものづくしの謡。丸く収まった、ということなのでしょう。舞い納めた2人は静々と退場します。

聟入りものを見るたびに、「大事な娘を嫁にやるのに、親でさえ聟の顔を知らないのかしら」「聟だって、舅の職業くらい妻に聞いておけばいいのに」とか、考えます。でも、そういうことはたぶん、作品上はどうでもいいのだ。聟が家に帰って、舅どのとの顛末を嫁に面白おかしく、優しみを込めて話すのか。はたまた自分の胸のうちに収めて舅の威厳を保ってあげるのか。どっちもよいな。嫁の性格とか年齢によるのかも。きっとこの先もみんな穏やかで幸せになるだろうな、と温かな余韻が残る狂言です。

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