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無駄にクラクションを鳴らす原付は霊柩車の夢を見ているか日記


夕方ごろになると、バルコニーに立って取り壊し工事が行われている空き家を眺めて気分転換をしている。防音シートが外れている部分からしか見えないが、あんな立派に組まれた木造建築が2日3日と経つにつれて破壊されているのを見続けていると、不思議な気分になる。居住の役目を果たして壊れされてゆく姿が生み出すもののあはれだろうか。


そんな感傷に浸っていたら、クラクションを鳴らしながら2人乗りバイクが走行しているのが目に入った。

なるほど、最近クラクションがやたら聴こえるものだから危険運転が相次いでいるのかと思っていたが、よもや危険運転する方が鳴らしていたとは想定の範囲外であった。ネクストコナンズヒントは道交法第54条2項だ。


ところで、傍から見ると迷惑なクラクションフェチに過ぎない彼らは霊柩車の存在を知っているのだろうか。知らないのであれば、万が一に危険運転の果てに至ったとしても、彼らの大好きなクラクションが道路の終点を彩ってくれるであろうことをお伝えしたい。

しかし、彼らが霊柩車とクラクションの親和性を知っているとすれば、なぜ鳴らし続けるのかという疑問が生じる。「そこにクラクションがあるから」と片付けてもよいが、ここで1つの可能性を提示したい。


彼らが昔から霊柩車に憧れている可能性だ。

幼い頃、親に連れられていった親戚の葬儀中に見たとしよう。言うまでもなく、冠婚葬祭など子供からすれば(下手したら大人でも)退屈極みないイベントである。

ようやく僧侶の読経が終わり、クライマックスを迎えるべく火葬場へ向かおうというタイミングである。黒光りする大きな躯体の車がクラクションを鳴らしながら発車する姿を見れば、今までの退屈さも相まり、霊柩車に格好良さを見出す子供がいたとしても不思議ではない。

そして、子供だった彼は「いつかあれに乗りたい!」と夢を見たのだ。


だが、子供の頃の夢を抱き続ける人が少ないのは彼も例外ではなく、月日が経つに連れてその想いも薄れてしまった。

しかし、高校入学後の自己紹介でのことである。かつての彼と同じような、霊柩車への憧憬を幼少期から未だ抱き続ける同級生と運命の出会いを遂げたのだ。

自己紹介とは名ばかりに、霊柩車への想いを熱く語る同級生に対し、言うまでもなく周囲は怪訝な眼差しを投げかける。だが、彼だけはその短い時間の中でかつての夢を取り戻し、意を決して放課後に話しかけただろう。



「俺も一緒にお前の霊柩車に乗せてくれよ」と。

そこから彼と相棒の日々が始まった。早々に学校にも行かなくなり、夢を叶えるための資金調達に明け暮れてゆく。決して高知県の最低賃金は高くはない、それでも彼らはマイ霊柩車を手に入れて桂浜の龍馬像の前を走るべく、日夜努力を続けているのである。

そんな夢を純粋に追いかけ続ける彼らも、つかの間の休みには2人して原付に跨り、「買ったらお前が先にクラクション、鳴らせよ!」「じゃあ、君が最初に後部座席に乗っていいよ!」などといかにも青春めいた会話を交わしながら、クラクションを街中に鳴り響かせることもある。

もちろん、彼らを理解する人は少ない。不謹慎だと文句を言う人もいるが、そんな時には「ならお前を後部座席に搭載してやろうか」と親指を隠しながら胸を張って言い返してやるのだ。


そんな背景があったら許せるかと思ったが、やっぱり第三者からしたらうるさい上に不謹慎なだけだ。仮にも車と名がつくものが好きなら道交法は守れと言いたい。あと警察は取り締まりしてくれ。



というか、そもそもこの世のどこにも霊柩車'sは存在しないし、私は高知県民でもない。多分、彼らがクラクションを鳴らすのは、突き詰めると子供が音の鳴る靴が好きなのと同じ原理だと思う。




フタコブラクダのコブを同意の上で上下左右計13個にした後に、黄色いおべべを無理やり着せる活動がメインです。最近の悩みは鳥取県の県境を超えられないこと。