木箱記者の韓国事件簿 第10回 韓流前の職安通り(1)
東京・新宿の職安通りといえば日本における韓流の中心地とされる。最近は衰退気味とも言われるが、最盛期には韓国料理店や韓流グッズのお店が軒を連ね、多くの韓流ファンでにぎわっていた。
私がこの街に初めて足を踏み入れたのは韓流など影も形もない1990年代初めのこと。韓国人のニューカマーが多く集まる街のひとつとして職安通りが取り上げられていた雑誌を見たのがきっかけだ。インターネットのない時代、韓国関連の情報を得るのは容易ではなかった。得体の知れない韓国人街に少々の不安を抱きながら訪ねた職安通りはなかなかに衝撃的だった。現在とは比べものにならない小規模なコリアンタウンだったが、当時こんなに韓国のものがあふれた街は日本になかった。
本格的にこの街に入り浸るようになったのは1995年ごろからだった。留学費用を稼ぐため夜の仕事(水商売ではなくいわゆるガテン系仕事)をしていた私は、朝になり仕事が終わるとこの街にあった24時間営業の韓国スーパーに毎日のように通った。目的は店で売っていた朝鮮日報や東亜日報など韓国の新聞で、1部200円だった。韓国語を学ぶ日本人が珍しかったのだろう、早朝でお客の少ない時間だったせいもあり、レジのあんちゃんも話し相手になってくれた。この店は「ジャント」という名前で職安通りの北側にあった。店は後に道を挟んだ反対側に拡張移転し「韓国広場」となった。韓流ファンならだれもが知っているあの超有名店だ。ジャントでレジの合間に話し相手になってくれたあんちゃんは実は韓国広場社長の弟だった。
韓国広場とはこのあともちょっとした縁があった。97年春に韓国での留学を終え帰国し、韓国語を使える仕事を探していたら国際電話代理店の営業という仕事を見つけた。営業は自分の性格を考えると不向きではあったが、韓国語を活かせるということもあり応募してみたところ見事に採用された。韓国人向けに国際電話カードを販売するという仕事で、職安通り界隈のお店にも営業に行ったが、この街は韓国系国際電話会社の勢力が強く、営業成績はなかなか伸びなかった。そんな中、国際電話会社の本社の担当から、イベント会場に出店し販促キャンペーンをするよう指示があった。話を聞くと、イベント会場とはジャントから拡張移転する韓国広場のオープンイベントだった。店頭にブースを設け、景品などを配りながら国際電話カードを販売するというもの。簡単な登録で韓国に3分間無料で電話をかけられるサービスなども提供した。韓国広場の社長とはジャント時代には面識がなかったが、あいさつした際に以前ジャントに通っていたことを話すと大変によろこんでくれた。
もともとニューカマーの間で知られていた店の拡張移転オープンということで多くの韓国人客が詰めかけ、おかげでカードの売れ行きも好調だった。なにより韓国語で接客する日本人の存在が珍しがられ、ちょっとした人気者になれた。韓国広場のスタッフもまかないの食事の際に一緒に食べようと誘ってくれるなど親切にしてくれた。こういう時は韓国人の懐に飛び込んでいった方がいい。一緒にごはんを食べながらみんなと仲良くなった。この時レジのアルバイトをしていた韓国人留学生の女の子とは20年近く過ぎたいまでも細々とやりとりが続いている。当時のまかないは、店内奥の空いている一角にタッパーに入ったキムチやおかずを並べ、スタッフがそれを囲むように地べたに座り込んで食べていた。事務所ではなくお客が普通に通る店内でだ。いまでは大盛況の店内にそんなスペースはないが、当時はそんな余裕があった。知り合いのお客が通れば「食べていく?」と声をかけ、お客のほうも「おいしそうなキムチね」といいながらつまみ食いしていくようなアットホームな雰囲気があった。
韓国広場店頭での国際電話カード販売は5日間ほどで終了した。それと時を同じくして仕事も辞めてしまったのだが、この街との縁はその後も続いていった。その話はまた来週に。
初出:The Daily Korea News 2016年9月12日号 note掲載に当たり加筆・修正しました。
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