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自分自身に嘘をつかないこと

 高校時代、当時やりたいことが見つかっていなかった自分にとって、「総合入試」という入試方式を採用している北海道大学は、甚だ魅力的に感じられていた。パンフレットを見流すなかで、前身である「札幌農学校」の初代教頭を務めたクラーク博士の言葉が不意に目に留まった。

来道してわずか8カ月余の札幌滞在でしたが、翌年明治10年4月16日、クラーク博士は教え子たちと島松(北広島市)で、馬上から、有名なことば「Boys, be ambitious.(青年よ、大志を抱け)」と別れのことばを叫んだ、と伝えられ、まさに北海道開拓精神を代表することばとして、後世に伝えられていきました。

札幌羊ヶ丘展望台 公式Webページ

 大志か。。。志。。。
 当時、志と言われてもさっぱりだった。

 自分はいま、会計事務所子会社で、経営計画・事業計画の作成に携わっている。特に経営計画では、経営者の志が“中期ビジョン”として語られることが多い。
 事業の計画を通じて、何を成し遂げたいのか、そのために何をするのか、何が必要なのか、それらを一貫性をもってぎゅっと詰め込んだものが経営計画だと認識している。このうちビジョンとは、何を成し遂げたいのかにあたる。

 とはいえ、この“成し遂げる”という言葉には、ある一定の制限がかけられている。すなわち「成し遂げる」は、ある一定の“大きな”目標・目的に向けプロセスに執着し、自身の最高出力でその目標・目的を達成するということだ。

 この「成し遂げる」に対して最近よく思うのが、結局のところーその志が如何に大きいものであっても、「誰を幸せにしたいのか」という問いが起点となる、ということだ。
 「犯罪被害者に寄り添い、公正な裁判によって様々な法的措置が加害者に下されるために戦うとともに、精神的安寧を自身のネットワークを通じて提供できるような弁護士になりたい」という志があるとして、被害者の負の感情へ共感し、その感情を少しでも和らげることに貢献したいという、その強い気持ちこそ、志の根底にあるものであり、そこには必ず、具体的な自分以外の「他者」(ここでは犯罪被害者)が前提となっている。同じ弁護士であったとしても、社外取締役としてコーポレートガバナンスに携わる弁護士にとっては、経営者が「他者」になるし、同じく法曹分野の裁判官は、公正に裁判されなかった全加害者・全被害者が、その「他者」となる。
 この少々青くさい「誰を幸せにしたいのか」という問いは、自分のビジョンが明確になっていない段階では、それについて考えるための足掛かりになるものだと思う。

 そんなことを考える中で、今日の「ドラゴン桜2」の投稿は、内容的にとてもヒットする内容だった。

 先に「成し遂げる」は「一定の“大きな”目標・目的に向け…」と語った。ただ、この“大きな”は極めて相対的なもので、万人に通じる「大きい」の基準的なものはない。あくまでも、自分が「大きい」と思うものが「大きい」で良いと思う。「小さい」と思うようになれば、「大きい」と思えるように修正すれば良い。
 でも、それだからこそ、自分自身に嘘をついてはいけない。「大きい」と「小さい」の基準は自分自身が決めるものだからこそ、その基準をぶらさないためにも、自分自身の像ーあくまでも“像”としてしか見ることはできないが、その像を見誤ると、志など思い描けなくなる。

 この塩梅は当然難しい。大きすぎると実現不可能な中で窮してしまうし、小さすぎると鼻から諦めに繋がってしまう。

 ここまでは、志の設定段階においての話だったが、この一連の話は、達成のためのプロセスにおいても然りだ。自律とは、極めて判然とした自己像のもとに、自身の感情をコントロールしたうえで、行動で出力することを言う。

 ビジョンがない。それゆえ貪欲になれない。そんな自分に嫌気がさす。
 そんな時は、誰を幸せにしたいのかという究極で青くさい問いを投げかけ、限りなく自分に嘘をつかずにそれを追い求めるという無邪気な姿勢が大切なのかもしれない。

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