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上弦の弐・童磨は万世極楽教のマザーコンピューターである

2022年2月13日。美麗な作画と派手なアクションで多くのファンを魅了した「鬼滅の刃 遊郭編」の最終話が放送された。その作中、上弦の陸・妓夫太郎の回想シーンのクライマックスには百年前に上弦の陸であった鬼が登場する。白橡色の髪に虹色の瞳という特異な外見もさながら、人間に害されて死の淵に瀕している兄妹に救いの手を差し伸べる慈悲深さと、ふたりの遊女の遺骸を抱え口元に血を滴らせる猟奇性。そんな相反する属性を同時に見せつける彼に、強烈なインパクトを受けた視聴者も多かったことだろう。
アニメ遊郭編では名前も明かされぬまま終わったが、原作既読者にはご存じのとおり、この鬼とはのちの上弦の弐・童磨である。彼は鬼滅の刃を扱っている記事の中で「サイコパス」「同情するところのない悪鬼」などと貶められて紹介されることが多いのだが、私には彼がそんな単純に片づけられるような人物とは思えない。故に考察などという大業なものではないが、私見の備忘録としてこのnoteを綴っておこうと思う。

童磨の言動を鑑みれば「口が達者である」「共感性がない」などの一部のサイコパスの特徴はたしかに当てはまっている。しかしそれ以外の「相手の感情を推し量り利用するのが得意」「他人への興味が薄く自分さえよければいい自己中心的な思考をする」等の特徴が、作中描写と合致していない。
童磨はフランクな言い方をすれば「陽のコミュ障」であり、上弦会議での一連の言動から相手の裏に隠された感情を推し量ることが非常に不得手であるのが伺える。また、幼少時から鬼となりいたる現在まで教祖として信者を導く立場を貫いており、当人が「可哀想な人たちを救ってあげたい、そのために俺は生まれてきたんだ」と語るほどに他人への奉仕を生きがいとし、己の使命だと信じ込んでいる。(これはファンブックにも公式見解として記載されている)

万世極楽教の教義は「辛いこと苦しいことはしなくてよく、穏やかな気持ちで楽しく生きること」で、有言実行で童磨は彼の寺院で信者や匿った生活貧窮者にそのような生活を営ませている描写がある。一方で青い彼岸花を探させる、鬼狩りとの戦いに利用する等、信者を操り自益を得ようとしている描写はない。サイコパスの大きな特徴である他者コントロールと自己ファースト、このふたつが全く欠けている童磨をサイコパスと定義するのはどうにも無理があるのではないかと、私は思う。

童磨が一見してサイコパスと誤認されやすいタイプなのは確かなので、何か他に彼をより適切に表現する言葉はないかと考えた結果、とある「専門用語」に私は思い当った。
童磨の性質に最も近いと私が考えるもの、それは汎用学習型の人工知能(Artificial General Intelligence)である。単語だけ挙げられてもよく分からないと思うが、SF映画に出てくる都市を合理的判断で支配するマザーコンピューターを思い浮かべていただければ大体の雰囲気は理解してもらえるのではないだろうか。
大正時代が舞台の作品に人工知能?と首を傾げる方が大半だと思うので、順を追って説明していく。

先天性か後天性かは明かされていないが、楽しいことも悲しいことも何も感じられないという「感情喪失症」を患っている童磨は自発的に湧く情動がないために、自分の言動を目と耳で聞いた外部情報と、今まで得てきた脳内にある学習情報に依って決定していると思われる。
アニメ最終回で描かれた現上陸兄妹との邂逅を例に挙げると、目の前で死にかけている子どもたちがいると「認識」し、このふたりは可哀想だと「分析」し、彼らは自分が救うべき対象であると「判断」している。そしてそれらの情報を元に彼らを救うための「演算」を行っているのだ。
「妹は重度の火傷で通常の手当てでは到底助けられない」という目の前の情報と「鬼は凄まじい回復能力を有している」という脳内にある情報とを照らし合わせ、童磨は「兄妹ともに鬼にしてやろう」という「ケース最適解」を弾き出した。そこに余計な私情は一切絡んでいない。あくまでフラットかつ合理的な計算で解を得て実行しただけの話である。(余談だが、アニメでは童磨役・宮野真守氏により「その娘間もなく死ぬだろう」の台詞のあと一呼吸おいてから次の台詞を話し出す演技となっており、前述の機械的演算による反応のタイムラグのように私には感じられ、演技の巧みさに唸らされた)

ここでポイントとなるのは、妓夫太郎の最大の望みが「妹を元の姿に戻したい」であったために童磨の行為は彼にとって待ち望んでいた救いの手となったが、もしも妓夫太郎が「妹を人間のまま生かしたい」と望んでいたなら、同じ行為を施されたとしても逆に童磨を恨んでいただろうという部分である。感情による微調整を伴わない画一的な「救い」は時には相手を更に深く傷つける刃となりうるが、共感性のない童磨にはそれが分からないのだ。

彼はあるものにとっては慈悲深い救い主であるが、別の誰かの前では許し難い悪鬼となりうる。人間性の欠如故に、冒頭で触れたような相反する属性を演技や嘘を伴うことなく、人工知能のように自然に併せ持つことが出来る、そこが童磨の最大の魅力ではないかと私は思っている。

人間性の欠如、人でなしであるが故に彼を同情できない悪鬼と断ずる人ももちろんいるだろう。だが彼の行為はすべからく善意から出たものであるのも確かなのだ。生まれついての悪ではなく、感情喪失という病質そして宗教二世という特殊な出自、神の子と祀り上げるばかりで我が子として扱わなかった毒親の存在が、彼を人間ではなく万世極楽教のマザーコンピューターにしてしまったと考えることだって出来るのではないだろうか。

もしも童磨が幼少のころ、せめて人間であった時代に彼に心から寄り添ってあげられる誰かがいて、人間的な愛情というものを「学習」出来ていたならきっと違っていたのではないか……そんなどうしようもない虚しさと切なさをも孕んだ、怪しい魅力に満ちた素晴らしいキャラクターが童磨であると、私には思えてならないのだ。

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