すべてがFになる

/森博嗣

おそらく、人間以外の生物、動物も植物もここには存在しないのではないだろうか、と彼女は思う。

「数字の中で、7だけが孤独なのよ」

「会話に、そのような導入部は無用です。接続詞もいりません。脈絡というものには興味がありませんから」

「でも、真実というものは他人の理解とは無関係です」

「1から10までの数字を二組に分けてごらんなさい。そして、両方とも、グループの数字を全部かけ合わせるの。二つの積が等しくなることがありますか?」
「ありません」萌絵は即答した。「片方のグループには7がありますから、積は7の倍数になりますけど、もう片方には7がないから、等しくはなりません」
「ほら、7だけが孤独でしょう?」

「私だけが、7なのよ……。それに、BとDもそうね」

「動機なんてものに、何か意味があると本当に考えているの?」

「仮想現実は、いずれただの現実になります」

「他人と実際に握手をすることでさえ、特別なことになる。人と人が触れ合うような機会は、贅沢品です。エネルギィ的な問題から、そうならざるをえない。人類の将来に残されているエネルギィは非常に限られていますからね。人間も電子の世界に入らざるをえません。地球環境を守りたいのなら、人は移動すべきではありません。私のように部屋に閉じ籠もるべきですね。」

世の中に、本当に意味のある報告書がいったいどれくらいあるのか、と彼は思う。
(それは、つまり、トップが遅れているということだ)

こんな内容のない意見を、真面目な顔をして、意味のありそうな言葉で包装して発言できるようになったのは最近である。自分の本心を決して口にしないことが、生きていく道なのだ、ということも本能的にではあるが、少しずつわかってきた。

「そう、僕の認識ではね……、生物の定義は、やはり曖昧だ」犀川は煙草を右手に持って先を回した。「自己防衛能力、自己繁殖能力、それに、エネルギィ変換を行うこと、それくらいかな……。しかしね、たとえば、木で作られた可愛らしい起きあがりこぼし(起き上がり小法師)を想像してごらん

相手の言葉を繰り返す場合は、認識に時間がかかっている証拠であり、ほとんどの場合、思考が停止していると見て良い。

「いいかい? それは有機質だ。木でできているからね。それから、自己防衛能力がある。倒されても起きあがるだろう……。それに、ポテンシャルエネルギィを運動エネルギィに変換している」
「ところが、その起きあがりこぼしは、ものすごく可愛らしいんだよ。だから、それを一目見た人間はそれが欲しくなる。そのため、どんどん生産される。つまり、可愛らしいという自分の能力で、結果的には自己繁殖していることになる」
「でも、作るのは人間でしょう? 自己繁殖ではありません」
「他の生物の助けを借りないと繁殖できない生物は世の中に沢山いるよ。花が咲くのは、昆虫に可愛らしく見せて、自己繁殖の助けを求めているからだろう?」
「さっきの定義だと、そうなるね」犀川は答える。「だから、曖昧だって言っただろう。もちろん、DNAなんかで厳密に定義すれば、答は違うものになるけどね……。」

「まあ、非常識な連中ばかり集まっていますからね、うちには……。スタッフは、所長とそれに主治医の先生以外、全員が未婚ですよ。研究所内で生活して、起きていれば、ずっと仕事をします。昼も夜も……、勤務時間というものはありません。給料は普通のサラリーマンの三倍以上……、ところが、お金を使う機会は皆無です。銀行口座に貯まる一方ですよ。全員がほとんど一人で仕事をします。人と会うことは極めて希です。会議は電子会議ですし、話もコンピュータ上でします。我々は、平気で人の悪口を言い合います。マナーとかセレモニィはありません。挨拶もしませんし、一緒に食事もしない。歓送迎会もない。社員旅行もない。ルールは一つしかないんですよ。出来上がるまで黙ってろ、です」
「理想的な職場ですね」犀川はにっこりと微笑んだ。

「でも、そういう生き方も綺麗かもしれないね」犀川は言った。「自然を見て美しいなと思うこと自体が、不自然なんだよね。汚れた生活をしている証拠だ。窓のないところで、自然を遮断して生きていけるというのは、それだけ、自分の中に美しいものがあるということだろう? つまらない仕事や汚れた生活をしているから、自然、自然って、ご褒美みたいなものが欲しくなるんだ」

「人間が生きていることがクリーンではありえない。我々は本来環境破壊生物なんだからね。何万年もまえに、我々は自然を破壊する能力によって選ばれた種族なんだ。ただ、速度の問題なんだよ。環境を早く破壊しないためには、エネルギィを節約するしかない。それには……、すべてにコンピュータを導入して、エネルギィを制御することだ。それに対する人間性確保の欲求には、バーチャル・リアリティの技術しかない。まやかしこそ、人間性の追求なんだ。全員が自分の家から一歩も出ないようにすることだね、ものを移動させないこと……」

「孤独は、ナナです」

「思い出は全部記憶しているけどね、記憶は全部は思い出せないんだ」

「ネットワークさえつながっていれば、僕はどこにいたって良い」犀川は振り向いて嬉しそうに言う。「いや、正確には……、もともと、どこにいたって良いのだけど、ネットワークはなくてはならない……、かな。これで、自分の研究室にいるのと同じだ。」

「そう、ほとんどの人は、何故だか知らないけど、他人の干渉を受けたがっている。でも、それは、突き詰めれば、自分の満足のためなんだ。他人から誉められないと満足できない人って多いだろう? でもね……、そういった他人の干渉だって、作り出すことができる。つまり、自分にとって都合の良い干渉とでもいうのかな……、都合の良い他人だけを仮想的に作り出してしまう。子供たちが夢中になっているゲームがそうじゃないか……、自分と戦って負けてくれる都合の良い他人が必要なんだ。でも、都合の良い、ということは単純だということで、単純なものほど、簡単にプログラムできるんだよ」

「情報化社会の次に来るのは、情報の独立、つまり分散社会だと思うよ」

「元来、人間はそれを目指してきた。仕事をしないために、頑張ってきたんじゃないのかな? 今さら、仕事がなくなるなんて騒いでいるのはおかしいよ。仕事をすることが人間の本質ではない。ぶらぶらしている方が、ずっと創造的だ。それが文化だと思うよ、僕は」
「他人に干渉しないことが自由かしら?」
「おそらく、そうだろうと思う」犀川は答えた。「社会では、自由にもルールが必要だからね」

時計の文字盤には、本当に不思議なことがある。一般に、文字盤には、1から12までの数字が書かれている。これは当たり前だ。ところが、一時間は六十分なのである。何故、1から60までの数字を書かないのか。「2のところに長針があったら10分です」と小学生に先生は平気で教えている。子供には、世間の厳しさを教えるのだろうか、と犀川は思う。その不合理さに、どうして誰も気がつかないのか。こんな不親切な文字盤のメータが他にあるか、周りを見回してみると良い。一番良い解決方法は、五分を一分にすることだろう。一時間を十二分にすれば良いのである。

「女に興味があるような男はいないし、男に興味があるような女はここにはいないわけ。」

「日本では、一緒に遊ぶとき、混ぜてくれって言いますよね」犀川は突然話し出した。「混ぜるという動詞は、英語ではミックスです。これは、もともと液体を一緒にするときの言葉です。外国、特に欧米では、人間は、仲間に入れてほしいとき、ジョインするんです。混ざるのではなくて、つながるだけ……。つまり、日本は、液体の社会で、欧米は固体の社会なんですよ。日本人って、個人がリキッドなのです。流動的で、渾然一体になりたいという欲求を社会本能的に持っている。欧米では、個人はソリッドだから、けっして混ざりません。どんなに集まっても、必ずパーツとして独立している……。」

「あらゆる生命体に許されたことです」真賀田女史が優しく言った。「お願いだから、泣かないで……。本来、生物はそういう生き方をする運命にあるのです。新しい種のために花は枯れる。新しい卵のために母体は死んでいくのよ。これは、悲しいことではありません」

「私たちの時間はとても速い……」真賀田四季の声。「私たちが固体だと思っているものも、実は液体のように流れているのよ。私たちの時間が速過ぎるだけ……」

「まあ、俗っぽいことをおっしゃるのね?」
「今までの歴史でも、人は人を殺して……、それを賛美してきた。自由とか解放という目的で、大勢の人を殺してきたのです」

「僕の個人的な意見として、人間って、単一人格者の方が少ないと思っている」

「日本人って、個人の中の沢山の人格を、液体のようにミックスして攪拌してしまうのです。」

「1から10までの中では、7は孤独だ」犀川は、真賀田女史の言葉を思い出して言う。「1から16までの中では……、BとDが孤独になる」

「ああ、そうか……。16までなら、7は孤独ではなくなるわ。14がいるから……。」

現実の世界の膨大なデータ量。ほとんどが不必要で意味のない、捨てられるだけのために生まれてくるデータ。ごみはどこにでも落ちている。現実の世界は、余分のデータで汚れている。
純粋なものもない。
すべては複雑過ぎて、曖昧になり、本質が覆い隠される。単純なモデルは疎まれ、空論、空論と非難される。それがデータで埋もれた現代。

7は孤独な数字だ。

誰もいない密室で、鍵を開けるために残っていたロボット。天才から見れば、人間もあの程度の機能しか持たない存在なのだろう。

考えてみれば、住宅地の公園だって、自然を壊して作られている。地球が何億年もかかって固着した二酸化炭素を、人類は解き放とうとしている。
夏はどんどん暑くなるだろうか……。

火力発電は空気を汚す。水力発電は水系の生命を殺す。送電線のために森林は伐採される。そうやって、何かの生命を奪わないかぎり、人間は昼寝もできないのだ。

この女性、いや、この人間は……、仙人が化けているようにしか感じられない。仙人が操っているマリオネット……。
そう、人形だ。

「どうして、体に悪いものを吸われるの?」
「さあ……、どうしてでしょう」犀川は軽く微笑んだ。「正直に言えば、美味しいからですね。それだけです。あまり、生に執着していないからでしょうか……」
「死を恐れている人はいません。死にいたる生を恐れているのよ」四季は言う。「苦しまないで死ねるのなら、誰も死を恐れないでしょう?」

「そもそも、生きていることの方が異常なのです」四季は微笑んだ。「死んでいることが本来で、生きているというのは、そうですね……、機械が故障しているような状態。生命なんてバグですものね」

プログラムに潜んでいるミス……、そう、バグかもしれない。神の作ったプログラムのバグこそ、人類といえる。
「ニキビのようなもの……。病気なのです。生きていることは、それ自体が、病気なのです。病気が治ったときに、生命も消えるのです。そう、たとえばね、先生。眠りたいって思うでしょう? 眠ることの心地良さって不思議です。何故、私たちの意識は、意識を失うことを望むのでしょう? 意識がなくなることが、正常だからではないですか? 眠っているのを起こされるのって不快ではありませんか? 覚醒は本能的に不快なものです。誕生だって同じこと……。生まれてくる赤ちゃんって、だから、みんな泣いているのですね。生まれたくなかったって……」

「7は孤独な数ですね……。孤独を知っている者は、泣きません」

「貴女は、死ぬために、あれをなさったのですね?」犀川は緊張して言った。
真賀田四季はにっこりと笑って頷く。「そう……、自由へのイニシエーションです」

「どうして、ご自分で……、その……、自殺されないのですか?」
「たぶん、他の方に殺されたいのね……」四季はうっとりとした表情で遠くを見た。「自分の人生を他人に干渉してもらいたい、それが、愛されたい、という言葉の意味ではありませんか? 犀川先生……。自分の意志で生まれてくる生命はありません。他人の干渉によって死ぬというのは、自分の意志ではなく生まれたものの、本能的な欲求ではないでしょうか?」

「お父様も、お母様も、死んでいかれるときに、そう思われたかもしれないわ。突然だったことには驚かれたでしょうけど……」

「私には正しい、貴方には正しくない……」四季は言う。「いずれにしても、正しい、なんて概念はその程度のことです」

「いえ、本当の貴方を守るために、他の貴方が作られたのね。」

「よく似たアーキテクチャのCPUですけど……、そうね、最も違うのは、たぶんクロックでしょう」
「では、あと、百年くらいしたら、僕も博士のようになれますか?」
「そう、百年では無理です」四季は首を傾げてにっこりと笑った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?