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「自分さえ良ければ」を自覚する

私は、「自分さえ良ければ」というのが好きではありませんでした。世のため、人のためと言わないまでも、自分だけでなく、周りのことも考えるように意識してきました。

例えば、幼稚園の運動会に行くと、親は、我が子を撮影するため、最前列でビデオカメラを構えようと必死です。私は、他の人を押しのけてまで、最前列に行きたくありません。撮影していても、周りの迷惑になっていないか気になってしまいます。(この件については、ビデオを撮るよりも、肉眼で競技をしっかり見て、応援してあげたいという気持ちもあります。)

コロナ禍が始まった頃、都道府県をまたぐ移動は自粛されていました。政府や都道府県の要請もありますが、人が作り出す空気感も強くありました。私の住んでいる地域でも、県外、特にコロナ感染者が多い首都圏ナンバーの車には、地元の人の冷たい視線を感じました。旅行に行くにしても、コロナ感染者が多い首都圏は避けて、比較的少ない地域を選ぶという声も聞きました。しかし、コロナ感染者が少ない地域の人からすれば、自分の住んでいる地域は、相対的に感染者が多い地域になります。自分が感染するリスクは気にするけれど、他の地域に感染を広げるリスクは考えないようで、「自分さえ良ければ」なのかと、嫌悪を感じていました。

私は、昨年末に新型コロナウイルスに感染しました。
感染してから、変わったことがあります。

それは、テレビや新聞の「今日は新型コロナウイルス感染者○○人」という記事が気にならなくなったことです。

感染者数が気にならなくなったのは、自分が感染するリスクが減ったためであることは、明らかです。感染者数が増加しても減少しても、しばらくは自分が再度感染する可能性は低いと思っているからです。

そんな自分に少しショックを受けています。新型コロナウイルスも、社会はどうなるのか、重症で苦しむ人や亡くなる人が増えなければ良いかと考えていたつもりでしたが、実は、自分さえ感染しなければ良いと思っていたということに気づきました。感染者が少ない地域に旅行しようとしていた人達をとやかく言う資格はありません。結局、「自分さえ良ければ」は自分のことでした。

まだまだ未熟とも思いましたが、人間(少なくとも自分)の本能だから、仕方ないと受け入れることにしました。生きている限り、自分が病気になりたくない(死にたくない)というのは、いろいろ言っても、自然な感情です。そんな自分を受け入れることで、他人の行動も受け入れられるようになります。勝手に決めた自分のルールで、(心の中で)他人を裁くより、人間はそんなものだと受け入れた方が、周りも自分も、生きやすくなります。

今は、「自分さえ良ければ」という本能(弱さ)も受け入れられる広い心が、本当の意味で、自分や周りのためになることができると考えています。


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