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「俺」と「僕」の間-サンキュー・スモーキング-

自分のことを「俺」と呼ぶ男性は多い。
多いというより、9割方がそうかもしれない。

けれど、同時に自分のことを「僕」と呼ぶ男性も多い。

いや、そうじゃない。
一人の男性が、自分のことを、「俺」とも「僕」とも、場合によっては「私」とも呼ぶ。
呼び方を使い分けているというのが正しい。

大半の女性は、自分ことを「私」と呼ぶ。
中には、「エリは~」とか「ユミは~」と、自分で自分の名前を呼んでしまう人もいるが、いい大人になってそれをやるのは、よほど狙っているか、痛いヤツだ。

男の子の親はたいてい、最初に「僕」という呼び方を教えるので、自我の芽生えていないほんの幼児が自分を「俺」と呼ぶことは非常に少ない。
けれど、ちょっと物心がついて小学校高学年くらいになってくると、「俺」と呼ぶ子が増えてくる。

私はこの、男の子が意図して自分を「僕」から「俺」に切り替えるタイミングというのに、すごく興味がある。
目の前の男性が、自分を「俺」と呼ぶことを意識すると、一体、いつこの人は、「僕」から「俺」になったのだろうと、その人の少年時代を想像してみたりする。
逆に、大人になっても決して「俺」を使わず、「僕」で通している人を見ると、この人は、随分とピュアだったか、子どものころから一本筋が通った人なのかしらと思ったりもする。

それと似たようなポイントとして、私が観察するのは、タバコを吸うか吸わないかということだ。
男性でも女性でも、タバコを吸う人を見ると、一体、いつこの人はタバコを吸い始めたのだろうと、そのきっかけを思い描く。

おそらくは、思春期に、年上の友だちに誘われたりなんかして、大人ぶりたい気持ちとか、ちょっとした好奇心とか、他愛ないことがきっかけなのだろう。
律儀に法律を守って、二十歳を過ぎてタバコを吸い始めましたなんていう人は、皆無に等しい。
二十歳を過ぎる頃には物事の分別がつき、喫煙の非合理性を覆すだけの理由もないから、あえてそこから始めるわけがない。

私はタバコを吸わないし、一度も吸いたいと思ったことがない。
そのきっかけもなかったし、仮にきっかけがあっても、拒否しただろうと思う。
だからよく分からないと言えば分からないのだが、最初からタバコを美味しいと思う人はいないらしいので、好奇心に促された1回目はともかく、不味さを無理に乗り越えて2回目以降に挑戦した、その「背伸びしたい気持ち」や「強がり」や「反骨心」みたいな若さのパワーに、少し「セイシュン」を感じてしまう。
それで、タバコを吸う人を見ると、そんなほろ苦い「セイシュン」があったのねと思い描いてみたりするわけだ。

しかしながら、その「セイシュン」の代償に、何十年もの喫煙人生という十字架を背負うはめになっただなんて、「ニコチン切れた」と落ち着かない友人を哀れに思う。

本人と家族の健康を損なわせ、部屋と洋服に悪臭を染みこませ、公共の場所での肩身をせばめさせ、さらには60%にものぼる税率が出費をかさませる。
イマドキ、煙草を吸ったからって全然モテない。
いいことなんか、一つもない。
その、いいことなんか一つもないことを止めるに止められなくなるなんて、これは全く気の毒だ。

とはいえ、嫌煙が世の中の主流になってきたのは、それほど昔のことじゃない。
10年前までは、タバコの広告がばんばんテレビで流れていたし、飛行機でも電車でもタバコが吸えた。
大人の男はタバコを吸うもの、みたいな「常識」がまかり通っていて、そういう中では、タバコ、嫌だなあと思う気持ちを、表に出すことが憚られるような面もどこかあったかもしれない。
(そういえば、オフィスのデスクや会議中でもタバコ吸いながらっていう上司や先輩が多かった・・・)

近年は、タバコのネガティブキャンペーンが、あらゆる方面から行われている。
関係する法律ができ、業界の自主規制はますます厳しくなり、健康面の問題、特に吸う人だけでなくその近くにいる人への影響が強調された結果、「タバコって最悪に迷惑!」というイメージが定着してきた。

「タバコは健康を損なう恐れがあります」と、パッケージに表示しなければならないタバコ会社の自己矛盾。
ああ、なんとも言えないジレンマを感じる。

映画「サンキュースモーキング」の主人公は、タバコ研究アカデミーなる業界団体のスポークスマンだが、彼の仕事は、世間のタバコバッシングを巧みな話術でかわすこと。
日本以上に激しいアメリカの嫌煙潮流に対し、厚顔に立ち向かう、言わば「ヒール」役。

軽薄で口が巧く、やや腹黒く、意外と女にだまされやすい。
度胸がすわって、大胆で、勝負強くて、だけどこずるい。

そんな主人公の、屁理屈に翻弄される90分。
彼の人を煙に巻く交渉術は、案外勉強になる。

ジレンマはある。
あるけど、そんなの気にしてたら始まらない。

「タバコを止めるくらいなら俺は死んでもいい」くらいの勢いの人もたくさんいる。
自己責任だから、別に全然それでいいと思う。

でも、「タバコを止めるくらいなら死んだ方がいい」の主語は、「僕」や「私」じゃなくて「俺」の方がしっくりくるのはどうしてだろう。

多くの男性は、対象やシチュエーションに応じて無意識に「俺」と「僕」を使い分ける。
普段は「俺」だけど、母親の前では「僕」になる人は意外と多い。

その「俺」と「僕」の間に、何があるか。
素顔の自分はどちらだろう。
そういうこと、当の男性自身は、考えてみることあるんだろうか。


サンキュー・スモーキング Thank You for Smorking(2006年・米)
監督:ジェイソン・ライトマン
出演:アーロン・エッカート、マリア・ベロ、キャメロン・ブライト他

■2008/6/27投稿の記事
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