生田

JAGATARA アケミ30年目の追悼『おまえはおまえの踊りをおどれ』

90年1月27日にアケミが亡くなってから30年、つい先日からJAGATARAの音源がサブスクリプションでも聴けるようになり、主要アルバムがアナログで再発もされた。そして今日、渋谷のクアトロではJAGATARA 2020としてライブが行われる。80年代の日本でひときわ異彩を放った彼らの音楽はバブル景気に湧く日本で違和感を感じていた人々を強烈に惹きつけていた。本書はメンバーや当時の関係者のインタビューを中心にもう一度JAGATARAがどんな存在だったのかを捉えようとする企画だ。あれから30年、当時を知る者には今も響き続けるアケミの「なんのこっちゃい」という言葉が本書をきっかけにこれからJAGATARAの音楽に出会う世代にもいまこそ伝わって欲しい。

彼らの音楽に強く影響をうけたひとりとしてJAGATARAの思い出を書いてみる。

JAGATARAの思い出〜1987年の冬

JAGATARAとの出会いは1986年、最初に見たライブは渋谷のライブインだった。次がたぶん11月3日武蔵大学の学園祭、ちょうど二十歳だった僕はその時のステージにノックアウトされてしまった。それまでパンクやニューウェーブなどのロックしか聴いてなかった耳に大編成のファンク・ビートはあまりにも新鮮で、なによりアケミの歌がどんなパンク・バンドよりもリアルに響いた、歌詞の一節一節が正面から語られる嘘のないモノローグのように思えた。せっかくのダンス・ビートも踊るという経験のない当時の僕にはどうしていいかもわからず、ただステージに突進して「アケミー!」と叫ぶだけだったのだけど。

翌87年の3月、『裸の王様』を発売日に買ってから、僕のJAGATARAイヤーが本格的にはじまる。僕は当時大学の学園祭を企画するサークルに所属しており、その年自分の企画にJAGATARAを呼ぼうと動きはじめた。当時学園祭のコンサートはインディーズ・バンドをブッキングする大学が多く、早稲田、駒沢、明治、法政、横浜国立、神奈川大学あたりは毎年ラインナップを競っていた。僕が企画していた明治の生田祭は11月23日の勤労感謝の日とその前日の2日間、学園祭シーズンの最終日にあたる。そこでどれだけ面白い企画ができるかを考えるのだが、僕はこの年JAGATARAとばちかぶりの共演を企画した。ばちかぶりは初期の色物的なパンクから揃いのスーツを着たファンク・バンドになっており、JAGATARAとの共演は絶対に話題となると思った。それから夏休みが終わろうとしていた9月中旬、8月に渋谷エッグマンで解散ライブをやったローザルクセンブルグのどんとが新しいバンドのデビュー・ライブをやらせてほしいという連絡がきた、そのバンドがボ・ガンボスだった。最高のラインナップだがJAGATARAとの交渉はほんとに難航した、ギャラがこちらの予算の倍だったのだ。さらにこの年7〜8本は学園祭がブッキングされているという。学校から企画予算がでる学校ならいざしらず、こちらは会場費こそないが純粋な興行で音響も照明にも経費はかかる。しかも前日には法政でフリー・コンサートというスケジュール。何度かJAGATARAのオフィスを訪ね、マネージャーに駄々こねるようにしてお願いをした、さぞ迷惑だったのではないだろうか。その甲斐あってようやくOKもらえたのが9月の終わりごろだったと思う。しかしボ・ガンボスの出演により予算は完全にオーバー、それでも決行できたのは翌日の企画がソールドアウトを見込めたからだった。  

実は当日のことはそれほど覚えていない。主催の責任者としてあまりにもバタバタしていたこともあり、ばちかぶりのステージの途中、モニターの調子が悪くドラマーがステージから出て行ってしまったこと、そして動員もそれほどではなかったことをおぼろげながら覚えている程度だ。この年、自分にとって忘れることができないのは前日の法政学祭野外ステージのJAGATARAだった。

87年は5~6回はJAGATARAのライブを見ていた、いやむしろアケミの様子を熱心に追っていたというほうが正しいのかもしれない。というのも、この年彼らの演奏はどのライブも素晴らしかったと思うのだけど、自分にとってはアケミの歌が突き抜けるかどうかでライブの印象がまったく違ったものになっていたからだ。時にアケミはなにかに迷っているようで、どこか居心地のわるそうな印象を受ける時があった。もちろん僕はJAGATARAの曲で盛り上がりたかったが、それ以上にアケミが心の底から力強く歌う姿を見たかったんだと思う。  残念ながらこの年最高のステージは自分の企画ではなく、11月21日法政大学市ヶ谷校舎のフリー・ライブ、その日はゼルダとパンタが共演だった。

JAGATARAがステージに上がったのは22時近かったんじゃないだろうか。日中はそうでもないが、日が落ちるととたんに冷え込む晩秋の夜、乾燥した空気とお祭りの賑わいのなかのJAGATARAのステージは素晴らしかった。アケミは迷うことなく、いきいきと歌詞に込められたメッセージを伝えようとしていた、彼のそんな姿はひさしぶりだった。本編ラストの「みちくさ」の熱気の凄まじさ、そしてアンコールの「タンゴ」。あのステージ前のコンクリートの広場はそのまま歌詞にある都会の片隅だったし、見上げた空は暗くEBBYのギターがどこまでも響くようだった、おもわず込み上げてくるものを抑えようとステージに向かった。すべての演奏が終わった後、校舎の屋上からしょぼい打ち上げ花火があがった、そこまで含めて完璧な夜だった。あれから30数年たったというのに、この夜のことは匂いまで覚えてるような気がする。

バブル経済で盛り上がった80年代後半、アケミの歌は「おまえらなんにもわかっちゃいねえ」という思いを世の中だけでなく、自分たちにも向けていたのだと思う。30年たったいま、またそのメッセージの正直さはより強く響く。生田祭のステージが終わり、JAGATARAの機材車も出発しようという時、メンバーからも離れひとりで大教室のすみにポツンと座っていたアケミに僕はひとことお礼とメンバーのみんなが出発する旨を伝えると、「おれは電車で帰るよ」といって楽屋になっていた大教室をひとり後にした。

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