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11/30 ONE AND ONLY AIRWAVEにむけて

いよいよ今週はAIRWAVEの活動20周年を記念した来日イベントが渋谷のR-Loungeで開催される。
え、もう20年、彼の「Above The Sky」や「Lady Blue」で踊ってからもうそんなに経っているのか。
気がつけば僕がパーティーに出会ってから25年、昨日のことのように感じていたけどもうかなりの時間が経っている。トランスというジャンルももう歴史の一部になっているのだ。
最近はすっかりロックの現場ばかりなのだが、僕自身の音楽歴の中で一番大きな出来事はあの90年代後半にパーティーに出会ったことなのは間違いない。あの出会いがなければ今とは全く違う人生だったことだろう。

今回NECOくんからDJのオファーをもらったことは僕自身の音楽とシーンについていろいろ考えるきっかけとなった。またパーティー、クラブ、ダンス・ミュージックがこれほどまでに広がらない日本でがんばっている今回のオーガナイズ・チームや集まってくれる人々に敬意を表して、自分にとってパーティー、レイヴ、ダンス・ミュージックがなんだったのか書いてみようと思う。もう当時を知る人も現場にはほとんどいないだろうし、何よりもあの熱気がいったいなんだったのか、思い出しながら綴ってみたい。

僕が自分自身の音楽を発見したのは1981年、中学3年の頃。それまでラジオは熱心に聴いてはいたけれど自分でレコードを買うまではいかなかった。大きなきっかけになったのはクラッシュの『ロンドン・コーリング』で、同世代にはこのアルバムで同じような体験した人は多いと思う。そこからレコードにまみれる日々に突入し、UK、USのパンクからニューウェーブ、遡ってキンクスやフー、ドアーズやヴェルヴェット・アンダーグラウンドなどの60年代まであっという間にロック・マニアになっていた。高校時代にはスミスとアズテックの洗礼を受けてさらに加速し、大学時代にはライブハウスで企画まではじめるようになる。その調子で88年まで海外、国内を問わずロックを追いかけ続けた。けれど、パンクには間に合わず、リアルタイムのインディー・シーンも情報の少なさ、なによりも本当に見たいアーティストの来日公演もない状況の中、僕は自分のものと思えるムーブメントを体験できていないことが大きな不満だった。76、77年のロンドンにも85、86年のグラスゴーやマンチェスターにもいることはできなかった。不満というより、ムーブメントというものに強力に憧れていたと言ったほうがいいかもしれない。同時期にいろんなバンドやレーベルが登場し、シーンが形成され新しい音楽が世の中を変えていく、そんな渦の中の登場人物になって音楽の中心に突っ込んでみたかったのだ。なぜなら自分が夢中になって追いかけた音楽はすべてそういうものだったからだ。とくに60年代から追いかけたイギリスはそうだった、新しい価値観、若い世代の感性が音楽に乗り、時代の背景にある社会へメッセージを突きつける。

転機は89年にやってきた。前年のストーン・ローゼスのデビュー、ハッピー・マンデイズの「W.F.L」そしてプライマル・スクリームの「ローデッド」あたりからイギリスのインディー・シーンからこれまでとは全く感覚の違うシングルが次々とリリースされ始めた。この時期に買い逃してはいけないシングルを見逃さないために週3回は輸入盤店をまわり、そういった曲がかかるクラブに出かけ、大学の仲間とDJをはじめるようになった。90年には大学を卒業、インディー・レーベルで仕事をはじめるころにはイギリスのバンドの来日ラッシュとなっていた。この時の「なにかとんでもないことがイギリスで起こっている!」という予感と高揚感は忘れないだろう。90年も後半になるとようやく状況も見えてきた、どうやらアシッド・ハウスという音楽が全てを変えているようだ。自分が好きな12インチでよく見るポール・オークンフォールド、アンディー・ウエザーオール、テリー・ファーレイ、彼らはみなDJだった。ついに自分のムーブメントがやってきた、しかもそれはダンス・ミュージック。この流れが現地のイギリスと日本の大きな違いで、多くの日本人はインディー・ダンスからアシッド・ハウスやテクノに入ってゆく、特に僕のようなロックファンならなおさら。しかしイギリスではアシッド・ハウスやレイヴのサウンドやメンタリティーをロックバンドが取り入れていた、つまり順序が逆。だからと言って何か問題があるわけではないけど、この時点でもまだタイムラグがあった。当時はそんなこともおかまいなく夢中になっていたし、KLFや次々にリリースされるダンス・リミックスでようやく打ち込みのダンス・ビートに感覚がなじんできた、なによりもようやくステップを踏んで踊り始めることができた。

91年、いよいよ僕自身のレーベルがスタートする。同じような音楽を聴いてる仲間も増え、なによりも日本でもそういうバンドがシーンに登場してきた。これこそが自分自身にとってのムーブメントだと思う意識も少しはあったけど、本番はもう少し後になる。見よう見まねと手探りではじめたレーベルも最初は順調にスタートするが、2年後には先細ってしまった。92年にはイギリスでも、もうマッドチェスターもインディー・ダンスもすっかり落ち着いてしまい、93年は完全にモードが変化していた。アメリカのオルタナティブ・ロックやジャミロクワイを筆頭とするアシッド・ジャズがメイン・ストリームに登ろうとしていた。94年僕のレーベルではメインの2バンドが解散し、91年に持っていたあれほど大きな希望とオプティミスチックな夢は敗れ、僕はなにかを失ってしまった。しかしここは大きな入り口のほんの少し手前だった。

94年の夏に新宿のリキッドルームがオープンする、ここがその後の僕にとってのホームグラウンドとなる。この年ロックの世界ではオアシスがデビュー、方向性は見失ってもレコード店通いだけはやめずにいたのでオアシスはデビュー・シングルの「スーパーソニック」から買っていたし、ブリット・ポップが本格的に盛り上がりはじめていたのも気が付いてはいた。しかしロックの新しい流れよりも、自分がこれまであまり知らなかったダンス・シーンがより深い背景を持っているような予感を感じ、少しづつ足を踏み入れはじめたのだった。そのタイミングに出会ったのがアンダーワールドの『Dubnobasswithmyheadman』だった。まだダンスミュージックに慣れきっていない耳にもこのアルバムに込められたエネルギーは感じられた、僕が92年には終わってしまったと思っていたある感覚がこのアルバムにはまだあった、しかもよりタフでしたたかに響くなにかが伝わってきた。そのアンダーワールドがリキッドルームのオープニングに来日した。当時イギリスで強力なパーティーを展開していたMEGADOGというパーティーの日本開催としてドラムクラブと一緒の来日だった、この夜のドラムクラブは圧倒的なライティングと展開でアンダーワールドを圧倒した。それはライブやこれまで自分たちがやっていたDJイベントとは全く違っていたし、お客さんもそれまで見たことのないタイプの人たちばかりだった。普通に見れば単なる音楽イベントなのだが、これまで自分が見てきたものとまったく違った感覚と印象がうっすらと残った。それが何かをもっと知りたいと思った、その好奇心が僕をパーティーへの入り口まで連れて行ってくれた。

前年8月のリキッドからこの日までの間にイート・スタティックとドラムクラブが来た2回目のMEGADOG、CLUB VENUSといくつかのクラブに行っていたけれどまだ核心に触れるまでにいたらなかった。95年7月、ついにその日はやってきた。かつてクアトロのむかいにあったBEAM HALLという会場で行われたキーエナジーというパーティーが僕の人生にとって一番大きな扉を開けた。この日からダンスすることの意味がまったく変わってしまった。これまでの自分の動きはダンスではなく、ただ音楽を聴いていただけだった。ビートに乗り自分自身の体をコントロールして心の中でイメージするステップを踏むことがこれまで自分が考えていたダンスと全く別のことだと、この日気が付いた。イマジネーションと実際の身体の動きをすこしづつ合わせ、リズムに乗りトラックの展開でバリエーションをつけながら踊ることで思考もドライブされる。気がつけばあっというまに朝だった、この感覚をなんと言えばいいだろう。この日からほぼ3~4年全ての週末を踊って過ごすことになる。この日プレイされた曲でいまでも覚えているのはハルシノジェンの「LSD」とAge Of Loveのジャム&スプーン・ミックスだけだった。

95年の夏から毎週のようにパーティーに行く生活が始まった、オデッセイ、キーエナジー、イクイノックス、どれもトランスといわれるパーティーだ。都内の有名なクラブでのイベントではなくその都度会場を探してやるスタイルだ。そこに集まる人は普段全くなにをしているのか想像もつかない人たちばかり、三分の一ぐらいは外国人だった。みんなワイルドでオープン・マインド、ファッションではないヒッピー・スタイル、当時のパーティーはそれまで僕が知ることのなかったひとつの小さなコミュニティーとなっていた。そして、これこそが自分にとってようやく出会ったムーブメントだった。95年の夏から翌年のレインボー2000まで、とにかくパーティーを追っかけた。とくに印象に残っているのが朝霧のイクイノックス、六本木のスピークイージー、オデッセイの野外、そして原宿のホコ天でのキーエナジー。あまりに夢中になり、自分でもミラージュというパーティーまではじめている。当時はパーティーで配られるフライヤーが唯一の情報源、つまりフライヤーでどんなパーティーであるかを伝えることができればよかった、それほどにパーティーも多くなかったがパーティー・フリークはかなりいた。それからUBAR TAMRのデビュー12インチでレーベルもスタート、自分でもこのフットワークの良さにはちょっと驚く。
ほんとにいつも楽しくて、毎週ごとに爆笑のエピソード満載なのだがそれはまた別の機会に。
96年の夏にはもうすっかりシーンを見渡せるようになっていた、そうなるとハードなだけのゴア・トランスに物足りなく感じてくる。当時はジュノー・リアクターが中心にいたブルー・ルーム、インフィニティー・プロジェクトが運営するT.I.P、そしてロンドンで活動する日本人DJであるツヨシのマツリ・プロダクションがトップ・レーベルだった。そこにポール・オークンフォルドのPerfectoがトランスをテーマにしたサブ・レーベルPerfecto Fluoroをスタートさせる。そこからリリースされた彼のミックスCDが僕のその後を決定づけた。彼のプレイするトラックは攻撃的なトランスではなく、メロディックだけど疾走感があってパワフルでもその裏側には深くてエモーショナルな感情が感じ取れた。僕はようやく自分にフィットするサウンドに出会うことができたのだ。レインボー2000以降、いつものパーティーでは自分が踊りたいと思うサウンドにだんだん出会えなくなってきた、そこで次は自分でプライベート・パーティーをはじめることにした。

96年の秋、河口湖の近くにあった古い音響システムを備えたログハウスで小さなプライベート・パーティー『night & dawn』はスタートした。ここが僕と仲間の音楽実験室となる。最初のパーティーから半年はプレイされてる曲すらもわからなかったのだが、この時にはもうトランスのシーンもテクノもある程度わかるようになっていたし、オーキーのミックスから自分が求めるトラックも見つけられるようになった。そうなると自分でもDJをやりたくなる、そこで仲間内で自由に音楽を楽しめる場所さえあればOKだった。山小屋のーてんきはバイカーの集会などにも使われていて、周りに民家なども一切なく一晩中好きな音楽をたのしめた。この時期の最大の発見は踊ることで音楽の響き方が変わったことだった、自分のダンスを意識しながら音を追いかけることですべての音楽がまた新鮮に響きはじめた、パーティーが僕の耳をひらいてくれたと言ってもいいだろう。95年からの一年間はもうロックなんか聴けないと思っていたし、実際ほとんど聞くこともなかった。しかし『night & dawn』では明け方にはもうジャンルレスになんでも聴いていたし、時にはダンス・ミュージック以外の音楽で昼過ぎまでパーティーが続くこともあった。パーティーは5人しかいない時もあったけど、全く問題なかった。とにかく自由に音楽がきければそれだけで楽しかった。2回、3回と繰り返すうちにこのパーティーがちょっとした評判となり、口コミで徐々に人が増え始めた。翌97年にはもうすっかり毎月のレギュラー・パーティーだった。そんな時に『モーニング・トラックス』というコンピレーションのアイデアが生まれた。vol.1はほぼすべてのトラックを友達が作り、「Spritual Healing」という当時のアンダーグラウンド・パーティーの大ヒット曲をライセンスしてリリースされた。同時期にシケインの1stアルバムの日本盤も自分のレーベルからリリースしていて、この2タイトルが当時ちょっとした話題となり、その後の僕の活動に繋がっていく。

97年の12月には大きな転機がやってくる。97年にはDJツヨシの国内のマネージメントをはじめていて、本格的なパーティーのオーガナイズにも関わり、それこそヴェルファーレのアフターから平日のリキッドルームそしていくつかの野外レイヴを企画した。その経験から東京でオークンフォールドをよんでパーティーをやろうと思ったのだ。97年の12月当時のオンエア・イーストを会場にオークンフォールドと彼のレーベルからアルバムをリリースしていたMan With No Nameのライブというラインナップ、ある意味自分の趣味全開、でもパーティーはそういうものだ。オーキーの1曲目は「フレーミング・ジューン」、どれだけこの瞬間をまっていたことか。この時彼はMIX MAGのライターとカメラマンを同行していて、この日のパーティーはその後記事にもなっている。この時にオークンフォールドと直接会って話せたことが次のステップとなった。彼は僕に言った、「なぜイビサに来ないんだい?」。

97年の5月ぐらいに僕はブリクストン・アカデミーで開催されたツヨシがレジデントをしている『リターン・トゥ・ザ・ソース』というパーティーを見るためロンドンへ行く。まだダニー・ランプリングもゴア・トランスをプレイしていて、ライブ・アクトにハルシノジェンとシステム・セブンが出演していたと思う。5000人は入るであろう会場はパーティー・フリークで超満員、その熱気は日本で体験したことのないものだった。2011年にエリック・プリーズのパーティーで同じ会場に行った時には15年以上たってもまったくかわらない熱気に驚いた、イギリスの人たちにとってパーティーは生活の一部だった。パーティーも最高だったけど、もっと大きな驚きはレコード・ショップにXtraVaganzaやHooj Choonsのコーナーがあり、店によってはオークンフォールドのコーナーまであったことだ。この時にはまだ日本には入ってきてない音源を買いまくった。当時僕はMIX MAGやDJ、MUZIKなどのダンス・マガジンにオークンフォールドのプレイリストが掲載されるとそのリストのレコードを血眼になってさがしていた。もちろんプロモで発売されていないものも多かったが日本まで入ってくるものも少なかった、しかしロンドンは違った。この時の渡英とオークンフォールドの来日によって自分自身のスタイルを確信することになった。

そして98年9月、僕はイビサにやってきた。最初のパーティーはパチャでルネッサンスのジョン・ディグウィード6時間セット、BPM120ぐらいのハウスから徐々にトランスへ行くそのスムーズさに衝撃を受けた。最後のパーティーはアムネシアでクリームのクロージング・パーティー、DJは当然オークンフォールド。あの夜のアムネシアの熱気とオーディエンスの狂わんばかりの盛り上がりは一生忘れることはないだろう。強力に印象に残っているは「フレーミング・ジューン」「オフショア」そしてまだ発売前だった「1998」のPvDリミックス、スペース・ブラザーズにHooj Choonsの数々、素晴らしい夜だった。その熱気に浮かされたままに、翌年東京に自分が求めるパーティーがないのであれば自分が作ればいい、その気持ちだけで立ち上げたのがMOTHERSHIPだった。

第一回は六本木のレストランに付設していた小さなDJスペースでの開催、そこには河口湖のプライベート・パーティーに来てくれた人たちが集まってくれた。この日の小さな成功を受けて、9月にはニック・ウォーレンをゲストに迎えて新宿のリキッドルーム、これはある意味大きな賭けだった。ろくにビート・ミックスもできない自分も真剣にDJをやることを決意、当日僕のDJを見たニック・ウォーレンの苦笑いはなんとも言えない思い出だ。この日ニックが2回プレイしたのが「ブレット・イン・ザ・ガン」だった。この日にはもう翌月のPvDも決まっていて、いよいよ自分が理想とするパーティーに向けて走り出した。イギリスのスーパー・クラブをイメージした場内のデコレーションも作った。こうして振り返ってみると短い間にいろんなことが起こっていた。ここからの数年間にプレイした名曲の数々はあれから25年がたったいま聴いても胸がうずくものばかりだ。翌2000年の8月、茅ヶ崎の海岸でやったフリー・パーティーからバレアリック・サンライズがスタートする、この日午前3時からの僕のプレイにひとつの奇跡が起こった。その瞬間はまさに自分が理想とするシチュエーションだった、夜明け前のいちばん暗い時間からゆっくりスタート、徐々に青白く明けてゆく海を見ながら少しづつビートを上げていった。左手に見える江ノ島のほうから明るくなってきた空が青く抜けてゆく、正面の海の上には真夏の青空が輝き始めいる、夜が完全に終わろうとしているその瞬間に僕が選んだのは松坂くんのトラック「Night&Dawn」、その長くエモーショナルなブレイクの瞬間に太陽がその日初めての光をフロアになった砂浜に届けた。あの日ラストのニューオーダーの「リグレット」は素晴らしかった。

この年MOTHERSHIPはサシャを迎え1周年パーティーをZEPP東京で行った。その後オーガナイズ・チームが別れたことにより僕はパーティーの名前をthe OCEANに変更、あとはみんなが知っている通りだ。
いろんなことがあったけど、その時々にプレイした数々の名曲と瞬間瞬間のオーディエンスや友達の表情はきっと忘れないだろう。ヴェルファーレのシスター・ブリス、リキッドルームのドリンクがすべて売り切れたティモ・マースとデイヴ・シーマンのダブル来日、移動するタクシーで熱く音楽を語ってくれたBT、シャケのおにぎりが大好きなPvD、朝まで新宿の居酒屋で語り明かしたJunkie XL、機材トラブルで大変だったTRANSA、いつも最高の音をつくってくれたアコースティックの音響さんたち、97年辻堂の雨上がりの夜明け、レインボー2000の駐車場、毎年の茅ヶ崎のラジカセ・パーティー、雪に埋もれたのーてんき、末期ガンではなかったホアン、奈多海岸と志賀島、箱ウマに乗ってUNITのDJブースにたったNECOくん、15年越しに呼ぶことのできたシケイン、2m以上ありそうなアーミン、「プロテクション」がながれたカフェ・デル・マー、イビサのバイク事故、多摩川の夕日、ベン・ロストとの山梨、九州のワールド、数えきれない名場面の数々はいまでも鮮明によみがえる。

せっかくなのでAIRWAVEの来日に合わせて、当時の思い出を綴ってみようと思ったらこんなに長くなってしまった。
30日のパーティーで僕がプレイする曲にはそんな思い出がつまっている、楽しんでもらえれば幸いだ。

2019年11月27日

与田太郎

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