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東京都立横網町公園

今から99年前の1923年(大正12年)9月1日、11時58分32秒。

関東を大地震が襲った。
死者、行方不明者合わせて10万人以上。

東京都慰霊堂のある墨田区横網町。
そしてここは東京都立横網町公園。
この地には地震が起こる前に
旧陸軍被覆省があり、軍服などを製造。

両国周辺を中心に墨田区は明治維新後、近代産業が発達。

多くの武士たちが仕事を求めていた人の利、
隅田川や荒川のほか、竪川、横川などの内河川に囲まれた水の利、
日本橋など都心部に近いという地の利と、
3つの利に恵まれ、近代産業が次々と発達。

その一つにメリヤスなどの繊維産業があり、今でも多くの繊維系の会社がある。

当時、被覆省が移転したことで
その場所は空き地で、東京ドーム2個分ほどの広さだったといわれている。

地震が起きて、多くの近隣の住民は大八車に家財を積んでこの空き地に避難してきていた。

昼時ということもあり、火災があちこちで発生。風もあったことから竜巻のような火災旋風がその地を襲った。

この地だけでも3万8千人強の人が亡くなった。
関東大震災の死者は、当時の東京府だけでも7万人を超えるといわれている。

この御霊を弔慰するために、四十九日の法要がこの地において行われた。

その時から今日まで横網町公園は、慰霊の地として歴史を刻み始め、今に至るまで毎年慰霊会が開かれている。

当初は「大正震災記念公園」といわれました。その後、慰霊堂(当時は震災記念堂)や鐘楼、日本庭園が、多くの方の寄付により完成し、1930年(昭和5年)に、今の横網町公園として開園。

復興記念館


そして、第二次世界大戦下の1945年3月10日未明、東京の上空からアメリカ軍による焼夷弾を用いた大爆撃が襲い掛かった。

被災者310万人以上、死者数は11万人以上と、東京は再び大きな被害を受けた。

その後、東京大空襲で亡くなった御霊も慰霊堂に納められた。

現在、東京都慰霊堂では、春季3月10日と秋季9月1日、年2回、ご遺族をはじめ皇室の方もご臨席され、慰霊のための大法要が行われる。

今日、大法要後の慰霊堂に入り、お焼香をあげてきました。
来年は地震から100年の節目の年。

この慰霊堂が墨田区にあること。
自然が起こした負の遺産であり、人類が起こした戦争という負の遺産の両面を持つ東京都慰霊堂、横網町公園。

いつまでも残していかなければならない場所。
墨田区の子どもたちにも語り継いでいかなければならない歴史であると強く思う。

東京大空襲の頃のことを語れる方は既にかなりの高齢であり、墨田区ではその方々の話しを収録し、語り部の話としてまとめている。

忘れないために。
同じことを起こさないためにも。

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