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オンナのことば~枯れた女に足りない要素~


めす子はあまりフィクション系の
本や作品をみません。

フィクション作品で読んだ記憶があるのは

ゲーテの【若きウェルテルの悩み】
サン・テグジュペリの【星の王子さま】
高村光太郎の【千恵子抄】
ホイットマンの【草の葉】
ぐらいです。(*下2作品は詩集)

ヘルマン・ヘッセの【車輪の下】は
もはや途中で読むのをやめました。

古典文学は映画化されたものが多く、
2時間程度で観終わるので、
学生の頃はほぼレンタルDVDですました。
(時代が・・・)

『真実は小説よりも奇なり』
とおもっているので、


それくらいフィクションに費やす時間は、
タイムパフォーマンスを
意識しておました。


しかもエッセイや趣味系のもの以外は、
ほぼほぼ男性が著者の
ジャンルが多いので、


おのずとめす子の本棚には
男性が書いた本が昔も今も多い。

*****

アラフォーになり、
ファッションのテイストを模索したり、
色々刺激を受けるため、

同世代や少し上のお姉さま方が読む
8冊の女性誌を買ってみた。


ここ最近オシャレに気を持つ余裕がなく、
乾いていた感性がじわぁと
潤ってくるのを感じたり、
ときめきながらページをめくっていました。


そして、とあるミセス世代の雑誌で
一瞬にして心を鷲掴みされた
文章に出会に出会いました。

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて


気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか


苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし


初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志に過ぎなかった


駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄


自分の感受性くらい
自分で守れ ばかものよ

【自分の感受性くらい/茨木のり子】


なんだろう・・・
岡本太郎さんの【自分の中に毒を持て】を
読んだ時のように、
全身にダイレクトに入っていく感覚があった。


短い言葉なのに、
人生のどの瞬間にも沁みるような言葉を、
女性が書いてるなんて!
しかもかっこいい!!!

心がふさぎ込んだ時、
やさぐれそうになった時、
心に潤いを与えたいときにすぐに読めるよう、

すぐさま茨木のり子さんの
詩集を二冊買いました。

今までになかった本との
出会い方ができて嬉しかったです。


新宿の紀伊国屋や
神保町の古本屋巡りから、
ブックオフで掘り出し物を探すのが
大好きだった学生時代、

こんなパンキッシュな
詩集があるなんて知らなかったし、
もっと早くに出会いたかった!(泣)


ちょうど活動拠点を渋谷にし、
渋谷駅の岡本太郎さんの絵を毎日見ながら、

彼が書いた【自分の中に毒をもて】と、
【今日の芸術】がめす子にとっての
『アナーキーバイブル』だった学生時代、

男の言葉は男の肉体から滲み出てるので、
あの時のめす子は少しオンナの体、
特に月一回の生理が
疎ましく思っていました。


もし当時のアナーキーバイブルが
茨木のり子さんの言葉だったら、

幾分か既成のものに抗う気持ちの中にも、
女性らしい柔らかさがあったかもしれない。


20年弱損した気分。
でもきっと出会えるタイミングが
今だったのだろう。


茨木のりこさんの言葉が
アナーキーバイブルになったのには、
もう一つ心を鷲掴みにされた詩があります。

もはやできあいの思想には
倚りかかりたくない

もはやできあいの宗教には
倚りかかりたくない

もはやできあいの学問には
倚りかかりたくない

もはやいかなる権威にも
倚りかかりたくない


ながく生きて 心底学んだのはそれぐらい

じぶんの耳目

じぶんの二本足のみで立っていて

なに不都合なことやある


倚りかかるとすれば

それは椅子の背もたれだけ

【倚りかからず/茨木のりこ】

*****

めす子以外の姉2人と兄1人は皆、
学歴は中卒。

もともと中学卒業したら
働く気でいたけれど、
末っ子のめす子だけ大学まで進んだ。


高校も大学も地頭を鍛える場所というより、《形式的な学びの場》に思えましまい、
楽しさを見出せず、絶望を感じた。

それからはあらゆる学問を
自分の言葉で表現できるようになるために、


歴史(特に古代史)・宗教・政治
経済・哲学・芸術・社会学・心理学
サイエンスなど、
あらゆるジャンルの本を読んだ。

(当時新書がブームで、
学生のめす子にとって
手が届きやすい価格帯だったのが、
とてもありがたかった。

上野の国立科学博物館は
とことん好奇心を満たしてくれた)


人間が住んでいる環境を
とにかく理解・把握したかったし、

生きるという活動を行うにあたり、
社会システムの解像度を高めたかった。


おおよそ人間は目に見えるもので判断し、
理解できる範囲で物事の善悪や
価値決定をしていることが大半で、


本質的な視点に立って物事を考えることは、
よほど己で意識しないと
なかなか身につかな。

そしてそれは地味で
心労きわまりない作業だと気づいた。


1つひとつ事象を理解し深めていき、
抽象度を高めながら
言語化する作業を行うことを
20年弱続けて臨界点をこえると

【倚りかからず】の詩にあるように、
既成のものではもはや
賄えなくなってしまった。

(めす子にとって性を生業にしたのは、
学問探求の一環であった。)


最終的に人生空間から問われるのは
「己の人生全うして生きてきたか?」
であるならば、

無理はせずとも己の肉体と精神を
とことん使いこなすことは大命題である。


見えないものをみようとしたか。
気づけないものを気づこうとしたか。
知れないものを知ろうとしたか。
理解できないものを理解しようとしたか。

素直に、誤魔化さず、繕わず、カッコつけず、時にダサさも惨めさも嫌というほど
感じながら真摯に向き合ったか否か。


そんなことを意識しながら生きていると、
おのずと少なからずアナーキーな要素や
ロックやパンクな性質が顔を出してくる。

魂の叫びに耳をかたむけるのか、
そもそもそんなことなんの金にも
得にもならないと、
ないものにするのか。
それぞれの自由意志だ。


死ぬときになるべく後悔がないように、
自分から潔く棺桶にはいれるくらいの
気持ちを持っていたい。


そう思うと一度きりの人生を
とことん味わいつくしていきたいと思った。


茨木のり子さんの言葉には
そう思わせてくれるエッセンが
沢山つまっています。

彼女の言葉はとてもシンプルで
端的な表現が多いけど、
言葉に表すまでに
どれだけ観察眼を通じて心を砕いて、
いろんなことを考えていたの
かよくわかります。


オンナでありながら、
社会に適応しても従順にはならず、
とことん自分の命を使って生きていく。
そういう気持ちにさせてくれます。


使命とは命を使うと書く。


己の命、どこでどんな風に
使っていきていくのか。
命を使うか使わないか。
それもそれぞれの自由意志。



サブタイトルの枯れた女とは、
つまるところ己の感受性の責任を
負う姿勢がなく、


結果内観力が乏しいゆえに、
己の悦びにアンテナが立たず、
外側ばかりをみては、
なんの身にもならないマウント姿勢が
常備してあるマインドのことです。



ちなみに漢字では妬みはオンナ偏に石、
嫉みはオンナ偏にやまいだれを書く。

石のように心も体も硬い女と
病は気からでいう、気・生命エネルギー
が枯渇した女。

そういう女になるかどうかも
結局は自由意志。
己が己に問うかだけ。【完】





めす子











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