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悪いのは、「失敗」なのか?

人は愚かである。体調不良になって勉強なんてしてもどうせ集中できないだろうが、時間潰しにnoteの続きでも書くかと思い書き始め、つらつらと1000いくらか文字を綴ったあたりで誤って文章を削除し、あろうことか焦って下書きを保存したにスマホを振れば元に戻せたということを調べて知るのである。なぜ消した後に保存した。なぜ下書きを定期的に保存しなかった。なぜ文章を保存してから戻す方法を調べた。全くもって人は愚かだ。クソが。

とまあ愚痴をひとつまみしたところで大人しく文章を書いていくのだが、同じ内容を書くのは飽きるし新たなテーマを思いついたので、この過ちに関わるテーマについて語ろうと思う。

高校二年のスピーチでも似たような話をしたが、人は失敗するものである。どんなに素晴らしい人間であろうと、人生において全く失敗を経験したことがない奴などいない。そんな奴がいたらもはや人では無い。

さて、これについて、文章を読んでいる君たちは何を思いながら読んでいるだろうか。直近のものであったり、特に大きなミスについて考えたりしている人が多いだろうか。人生で最大の失敗は?と聞かれると、誰しもある程度唸ると思うのだが、実際そこで悩むくらい人なんて失敗するものなのだ。あれかな?と思い当たっても、何故かもっと大きなものがあったような気もする。たまにとてつもない失敗を経ていて即答する奴なんかもまあいるが、絶対的にこれ!と決められる人はそう多くはないと思う。まあ何が言いたいのかというと、失敗は起こるもので、それは避けられないものであるということだ。

自慢じゃないが、私は特に昔から人に比べてやらかしが多い方であった。兄と姉がいるが、どちらも日頃の行いに関してはなかなか優秀で、私は二人に比べればよっぽどズボラな人間である。何度も同じ失態を犯すと怒る側もかなりヒートアップし、何故言われたことが出来ないのか、何故同じことで怒られるのかと問い詰められるのだが、こちらにしてみればそんな自分に失望し、腹が立つことがしょっちゅうであった。普通に、どうしようもないのである。自分でも自分に何故できないのかを問い続けた。何も人を怒らせるために失敗している訳ではない。制御が効かないのだ。気をつけたって起こるものは起こるのだ。そう言うしかないのだが、そんな戯言を怒りに満ちた人間が聞くはずなどなく、幾度となく似たようなことで怒られていた。

そんな私も成長したものだ。毎日どころか一日二回ペースぐらいで怒られていた頃がもはや懐かしく、高校生ともなれば朝起きないことぐらいでしか怒られることもなくなってきた。やればできるじゃあないか、俺も捨てたもんじゃないな。などと思いつつ過去を振り返れば、あの頃の失敗の数々は、今俺の血となり肉となっているのではないかと思うのだ。

中国の思想家、孔子の言葉にこんなものがある。
「過ちて改めざる、是を過ちと謂ふ。」
ふむ、なかなか良いことを言う。全くもってその通りであると私も思う。数多の失敗を経験した私だからこそ失敗への理解が深いのかもしれない、と思ったのは結構最近のことである。

失敗を重ねる度に、何故出来ないのか、ということを昔からよく考えていた私だからこそ、その多くの問いの答えを今持っているのである。何もそれは生活の中での出来事には限らない。生活であろうと、勉強であろうと、ゲームであろうと、失敗には必ず原因がある。もう一度言う。必ずだ。それを見つけ出し、二度と同じミスを繰り返さないためにはどうすれば良いかを考える事こそが何よりも大切なことである。最初から失敗を起こさないように心掛けたとて、それが上手くいくはずないのである。人とはそういうものだ。失敗した時は、割り切るのだ。起きたものは仕方がない。その後の最善手を考えろ。失敗に落胆し、目を背け、逃げる事こそが真に愚かなのである。目を背けたところで、何も成長しない。何も得られない。何も変わらない。自分を変えたいと思うのなら、変わる努力をしなくてはならない。目を向けるのだ。それがどんなに辛いとしても、それを自分の財産としたいのならば。それを無駄にしたくないのであれば。大事なのは「その後」!

妙にポエムらしい幕切れとなってしまった。まあ別に良いだろう。余談になるが、私も最初は失敗する度に心を痛めていたが、今や失敗には慣れてしまい、ちょっとやそっとの失敗には全く動じなくなってしまった。失敗したらすぐに何が悪いか判断し、その原因が自分にあればすぐに悪かったと認めて謝るようになったのだが、あまりにそれが早すぎてどうにも反省していないと思われることが増えてきた。謝ってりゃいいと思ってんだろ、とか言われるのだ。困ったもんである。程々には反省した演技をした方が生きる上で有効であろう、ということをまた失敗から学んだ。


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