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自分で自分を殴っていることを知るすべがない

自分で自分を殴っていることを知るすべがない

この言葉は、デヴィッド・ボームの著書「ダイアローグ/対立から共生へ、議論から対話へ」(英治出版2007年刊)の「6・保留、肉体、自己受容感覚」で出てくる一文だ。自己受容感覚という言葉を持ち出して、肉体であれば自分の体を誰かが動かしたら直ぐさま認識出来る「自己受容感覚」が、感情や思考では欠如してはいないか?というボームの問いかけだと思われる。

さて、「生き心地の良い町」(岡檀著/講談社2013年刊)の終章の第五章「明日から何ができるか-対策を活かすために」の中に「どうせ自分なんて」という言葉に対して以下の著述を見る。

私もね、「どうせ自分なんて」って、言うことがあります。でもそれって、あまり深い考えもなく口にしている。それを言って何かいいことがあるかといえば、特にない。なのに、なんとなく言ってしまっているんですよね。 〜略〜 でも想像してみてほしいんです。どうせ自分なんて、というのが口癖になっている大人たちばかりのコミュニティに育つ、子どもにとってはどういう影響があるかを。子どもたちは未知の、無限の可能性を秘めているのに、「どうせ自分なんて大したことない」「どうせこのくらいまでしか行けない」というメッセージを日常的に浴びせられて、知らず知らずのうちにその感覚が刷り込まれているとしたら、あまりにももったいないと思いませんか。

「生き心地の良い町」(岡檀著/講談社2013年刊)

つまりマイナスの言葉が周りの子ども達の未知の無限の可能性に影響を与えるということだ。

これに加えて、太田久紀氏は「唯識の読み方/第二章心王(八識三能変-凡夫を越える道)大法輪閣1985刊」で更に深い示唆を現行熏種子(げんぎょうくんしゅうじ)の解説で与えている。

ことにこわいのは、言葉や<こころ>の行為までが(阿頼耶識に)残ってしまうことだ。私たちは、身体では悪いことはなかなかしない。が、口で悪口を言ったり陰口をたたいたりして鬱憤をはらすことはよくある。それも行為である。それがみんな阿頼耶識(あらやしき)の中に残ってしまう。まして<こころ>の中で「あん畜生、ぶっ殺してやる!」などと叫ぶには、相手も知らないし誰にも知られないから平気でやってしまう。これも余さず残ってしまうのだから、こわい。

「唯識の読み方」(大法輪閣1985刊)

同様に「どうせ自分なんて」という言葉や、口にせずとも「思い」までもが、自分の阿頼耶識に「自覚なく」沈着し、自分自身の形成にも影響を与えてしまう。周りの子どもだけではなく、自分自身にだ。

このことを、デヴィッド・ボームは「自己受容感覚」という言葉を用いて、肉体では自分で自分を殴っていることは直ぐに認識できるが、感情や、思考でも同じように「自分で自分を殴っている」という認識が持てないのではないか、気づいていないのではないかと示唆を与えてくれている。

周りからの言葉や自分が発する言葉、いや言葉に発していなくても思っただけでも、その直後からその言葉が自分を形成してゆく。つまり「自分で自分を殴っている」のである。

更に「唯識」は「種子生現行」(しゅうじしょうげんぎょう)で、

阿頼耶識の第一の性質は<蓄えること>という一面であり、「現行熏種子」という言葉を紹介した。それは、われわれのあらゆる行為が、人格の深層に痕跡をとどめていくということであった。次に、それに対応する「種子生現行」というのをあげよう。蓄えられた種子=経験が、一つはその人の人柄となり、一つはその人の環境世界となって現れるという意味である。

「唯識の読み方」(大法輪閣1985刊)

と、周りの子ども達にも<悪>影響を与えるだけでなく、「どうせ自分なんて」という言葉で自分で自分を殴り、「どうせ自分なんて」という言葉がその人の人柄となり、「どうせ自分なんて」という言葉がその人の住む環境世界までも作ってしまう。

なんと恐ろしいことか。

言葉がもつ威力を今一度自覚しておきたいと思います。

仮名(けみょう)
戯論寂滅(けろんじゃくめつ)。

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