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代理出産について

代理出産の是非を問えば、ケースに関わらず私は反対の立場をとる。
それはしかし、あくまで執刀の責任者である医師の所属機関である、日産婦や、厚生審議会等で禁止されている(03)からという事以上にはない。
出産は非常に個人的な経験だが、問題文の反響に見られる通り、その選択を支える医療のあり方の社会的影響力は大きい。
それゆえルール作りが必要となる。
それは無論、慎重な議論の上で成立すべきだが、是非がどうあれ例外を認め、法的拘束力が生まれないなら、個人の勝手ということになる。
なお、娘の母親の子宮ならばどうかという是非も、様々な理由で母親の協力を得られないケースはいくらでも考え得るので、量的な問題であり、また別に議論されるべきだ。実際に設問では夫の義理の姉の子宮を借りたケースも紹介されている。

さて、問題文を整理すると、代理出産はその方法の安全性、倫理的な問題ほか、結果として生じうる金銭トラブルや確執の可能性が示唆されている。
一方、反響を整理すると、不妊への辛さへの共感は見られるものの、反対意見の人が大半であり、そもそもケースに偏りがある可能性も否定できないが、反対理由の半数以上では、「禁断のリンゴ」という言葉に代表される様に、自然の摂理から乖離することへの恐れが見える。

リスクを総合的に評価し、代理出産を禁じるなら同意する立場をとるが、この中で倫理的な問題はよく整理する必要があると考える。
なぜなら、自然の摂理から反しているといえばそれは高度医療の是非と重なる問題であるからだ。
高度医療のサポートがあることで、ようやく延命している、あるいは生活している方は少なくない。
自然な感覚になんとなくそぐわないなら、現代医療を否定できるのかという問いでもある。
即ち個人的な感情と倫理はある程度切り離して考える必要がある。

前提として、子孫を残そうとする事も、手当てしようとすることも自然な行為だ。そのことに疑義を挟む者は少ないだろう。
一方で、多くの人にとって高度医療を受ける機会は限られており、非日常であり私事では無い。
医療が複雑化するほど、いのちのあり方も多様となり、同じ立場でない人にとってイメージのしにくいものになる。

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