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日本人の病気観①(本の紹介と構造整理)

病とは、医療とは、なんであるのか?文化によって存在する差異について

<一言 で 紹介>
比較文化の対象は、その最たるものに「医療」があるのではないだろうか?
「日本人」の「病気」観という大きな問いを掲げ、
アメリカの人類学者でありながら日本人である著者が庶民生活に紛れ込んで、
公式化された公の儀礼や事象、制度ではない日常生活から、
特に健康管理から文化的”象徴”を取り出そうとした本である。

病むとはどういうことか?
これは医療従事者には避けられない問いであり、書籍により様々な回答が提示されているが本質はひとつの言葉で表現されるはずだ。
それを知るための補助線にもなると思う。

<ただし書き>
たいへん優れた本だと思うが、
本書の書かれた背景により注意点がある


⑴日本人の病気観が、特にアメリカのそれと対比されているということ。


⑵本書が出版されたのは85年であり、フィールドワークされたケースはさらに十年程度古い。
当時は都市と地方で変化の度合いは著しく異なることも考慮に入れなければならない。

無論時間を超えて有効な部分もあるが、
本書は、以下のように近代化の成功例として日本を無邪気に礼賛する立場から自由ではない。
"自らの再帰性を保持する上で、必須の存在であった。すなわち「他者」は超越的自己の鏡であった。その外者である西欧を克服してしまったいま(…)"
(p325 多元的医療体系)
当時は日本が急激な経済的成長により敗戦から返り咲いたことに世界がむしろ驚いていた時期であり、理解はできるが

いつどのように克服したのか...?
手厳しいかも知れないが、少し素朴にすぎるといえよう。

(3)単純に文章が読みづらい。
サントリー学芸賞受賞時の選評では非常に面白い題材でありながら文章が読みにくいという評価だった。

筆者も文体になれるまで時間がかかりました。


<引用 de 紹介>
 
非常に衛生に気を遣う日本人のことだから、その結果としてもっぱら健康を誇り合うのかというとそうでもなく、むしろ互いの不健康を訴え合うことに熱心で、皆自分がどこかしら具合が悪いと思いこんでいる。こういう日本人の特性を、ヒポコンドリアと呼ぶ外人学者もいるほどだ。持病や体質が天候同様に挨拶の話題として幅を利かせ、軽々しく自分の不調を嘆いたりしては男の威信を損なうアメリカと違って、病気は一種の勲章にさえなる。ろくすっぽ休暇もとらない働き蜂の国でありながら、入院療養期間が長いことでは日本が圧倒的に世界一なのだ。(桐島 洋子(随筆家)評) 
以上サントリー学芸賞受賞時の選評からの抜粋

著者 大貫 / 恵美子 さん

1934年、神戸生まれ。
米国籍の文化人類学者(68年ウィスコンシン大学人類学博士号取得。)
象徴人類学者。

1985年、本書『日本人の病気観』でサントリー学芸賞受賞。
1999年アメリカ学士院会員。

著書に
95'『コメの人類学 日本人の自己認識』岩波 
95'『日本文化と猿』平凡社
03'『ねじ曲げられた桜 美意識と軍国主義』岩波 



『日本文化と猿』

「毛が三本だけ少ない」猿は猿はもっとも人と近しい動物であり、日本人は自分たちのありようを投影してきた。
日本文化の変貌の中で、いかにその意味合いが変化してきたかを描く。
科学以前では文化こそ知性の王道であり、アナロジーが合理精神と分離されずに行われた
非常に高度な知性がアナロジーを扱ったのだと思えば、古代の象徴というのは面白い。



『ねじ曲げられた桜 美意識と軍国主義』
では
日本人的美意識が軍国主義によっていかに利用され、変貌したかを描く

明治政府は、急激な近代化と伝統の継続性を重ねるために、桜を活用した。(…)やがて、菊や桐は天皇、旭日は国家、桜の花とつぼみは兵士と対応するようになった。「散る楼」は戦死を意味するようになり、靖国神社には桜が植えられた。
(朝日新聞 03' 6/12)



文化人類学史上最初の日本文化論「菊と刀」が書かれた1946年に象徴人類学があったなら、ルースベネディクトは間違いなく象徴人類学者に分類されていただろう。
「菊と刀」ほど先駆的でもなく、また有名ではないかもしれないが、
大貫のこれらの著作は、象徴人類学の学問的成熟と相まってほとんど教科書的な存在かもしれない。
文体が論文調で読みづらいところもあるが、要は議論のベースとなっている象徴人類学者たちへのアカデミックな気遣いであり、とりあえず読者は象徴人類学や文化人類学の主要な概念を押さえればいいということだと思う。

この本の対象と目的、骨組み

本書にまず向けられる大きな問いは以下の2つである。



①日本人の病気観とはどんなもの何か?

②病気感が特有なものであるとして、
文化的傾向がどのように影響しているのか?

③Covic-19に対する日本の対応とその解釈について
、文化的な影響は確認できるか?

コロナ退散の願いを込めてアマビエチャレンジなる創作活動が注目されたが、新聞のなかった時代、日本では人々は「この姿を書き写し見せよさすれば...」という伝承とともに、あまびえの絵を書き写して拡散していくことで情報の伝達を測ったらしい。

ただし本書は特に非日常的な感染症の流行に着目した本ではない。
そういう意味では、パンデミックについて考えるならば
例えばフレデリック・ケック著『流感世界』の方がたぶん適切かもしれない。(幻想の感染と、公認のストライキ、二つの神話。)

<補助線、自分の読み>

本書は、非日常ではなく、日常生活から特に医療行為から文化的”象徴”...つまり「日本人の思考構造」を歴史的に追求する試みである。




本書の内容に入る前に、人類学者アラン・ヤングによる"病いと疾病"の定義を引いて
本書のテーマである"文化的病原菌"という概念を明確にしておきたい。
(Young, A., The Anthropologies of illness and sickness. Annual Review of Anthropology)



つまり「病気(sickness)」は
「疾病(disease)」と「病い(illness)」から構成されていて、
「疾病」は生医学的に定義され、治療(curing)の対象になる一方、
「病い」はふつうの人が病気と感じている概念で、こちらを治すのは癒し(healing)...という定義だ。

なお池田氏は


”医療人類学は、これらすべての領域すなわち病気と治療の文化人類学的研究のうち、病気に関する理論的取り組みに関する意見表明は、この図で十全 に表現されうるだろう。”


としているが、この定義は医療人類学の対象を非常に簡潔に明白にしていることに同意する。

以下本書の整理に入るが、本書の理論的なバックボーンは
「象徴文化論」
「医療文化論」
「日本文化論」
の三つであり、それがこの本の思考の型になる。
*ざっくりというと例えば「象徴文化論」をベースに、「医療文化論」という切り口から「日本文化」を論じようという試みであると言えるが、もちろん順不同である。
“象徴文化論”は抽象度の高い議論になるので後に述べるとして“医療文化論”について先に述べる。


 
 

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