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適任者

序章

「俺が死んでも悲しまない」
「余計な情を挟まない」
「遂行能力がある」
「俺の意図を正確に汲み取れる」
親友は遺言の預け先を探していた。条件を勘案した結果、付き合いの長い相棒や最高の支援者は候補から外され、僕が任命されることになった。遺言といっても書類が作成されたわけではない。思いつきの「命令」が数十、間髪入れずに口頭で伝えられたのみである。本記事では、そんな彼の遺言を果たしていく中での出来事について徒然なるままに書き記していく。

第一章 日没

2023年8月19日、親友・サンは没した。混乱を防ぐための情報統制が晩には解除され、まずDiscordサーバーのメンバーに動揺が広がる。さて、ここで僕は「遺言」に頭を悩ませることになった。『勝手に悲しませるな』。無理難題である。衝撃を受けるサンの友人たちに「彼は君が悲しむことを望んでいない」「むしろ笑って見送るのが敬意だ」などと言って宥めながら「25日に公開されるnote記事を読め」と伝えて気を逸らしていた。この記事こそが『ネクロノミコン 写本』である。とは言うものの、その時点でまだ記事は完成していなかったため、情報公開を進めつつ期日までに書き上げる必要があった。
2023年8月25日、サンのアカウントで予約ツイートが投稿され、Discordサーバー外の知人たちにも情報が伝わる。僕は残念ながら東方界隈にパイプを持っていなかったので、記事の意図が正確に伝わることを願いつつDiscordでの活動に専念した。幸い(?)大きな混乱もなく事は収まったようなので結果オーライと考えている。いいでしょ?さんさん。

第二章 神格化

死の混乱も落ち着いてきた頃、2つ目の無理難題に取り掛かった。『俺が死んだら笑え』『生前の俺の意図を損なわず神格化しとけ』。アホなのだろうか。流石にそのまま神格化するのは厳しかったので、生前のうちに『死んだら個人情報とか使ってオモチャにしていいぞ』という約束を取り付けていた。これが後々非常に役立つことになる。僕は協力者とともに「北川太陽」という本名を開示した上で古代の太陽信仰とアレイスター・クロウリーのセレマをベースにエピクロス的な快楽主義をブレンドし、お遊び的、かつ高度に個人崇拝を確立した理論「サニズム」を作り上げた。サニズムはDiscordサーバー内で徐々に流布され、後にサーバー管理者を登用する学術試験にも科目として採用されることになるなど、想定に反して定着しつつあるように思う。

第二章寄り道 「神格化」?

前述の通り、サニズムは太陽信仰、セレマ、エピクロス派快楽主義をいい具合にブレンドした代物である。聡い読者はお気づきであろうが、これらの思想はあまりにも目標の「個人崇拝」に馴染まない。なぜこのような組成になったのか、それには当時のDiscordサーバーの状況がおおいに関係している。
まず、サンは徹底的な無神論者かつ唯物論者である。慢性疼痛に侵されていた彼の思想は自然とニヒリズムに寄り、かつ生来の個人主義的な性格から道徳的相対主義を内面化していた。このように不安定なサンの思想的土台を支えていたのがある種の絶対的なエゴイズム、「自分だけが(人生の)プレイヤーであって他は駒である」という利己的な考え方であった。これだけでは単に嫌な奴なのだが、サンのエゴイズムにおいては特異的な点が1つ存在する。「本当に、一点の曇りもなくエゴイスト」なのである。ただわがままに振舞うだけでは味方が減り、結果的に自身を苦しめる。故に基本的に他人には礼儀正しく接する。自身の信奉者には呆れて裏切らないよう硬軟織り交ぜて対応する。そして共通の利益で繋がった友人は共通の利益が存する限り味方であり続けるため、多少敬意を欠いた対応も許容する。常に最終利益を見据え、一時の感情で動くことのない徹底的な利己によって人間関係が概ね良好に保たれていた。ここが突破口となった。
繰り返すが、サンは唯物論者である。つまり死んだ後の名誉など本来彼の気にするところではない。僕はこれを聞いた時点で"戯れ"と判断し、即座に「オモチャにする」許可を取った。サンはこう考える。「最終的に面白いことになる(=神格化が為される)、少なくともそれを期待して良い気分で死ぬことができるのなら死後俺の知らないところでオモチャになろうが最終的にはプラスだ」。こうして僕はサンの個人崇拝とオモチャ化を併存させることに成功した。となると後は理論を組み立てるのみだ。
皆さんご存知(本当に?)サンの本名は「北川太陽」だ。本名で遊ぶ許可は事前に取っていたので、半ば言葉遊びのつもりで太陽崇拝をベースに設定することにした。サンが突然キレて自分のサーバーに引きこもる行為は「岩戸隠れ」(天照大神)、察しの良すぎる性格はヘリオス(ギリシャ神話)と結びつけるなど、"太陽"という印象的な名前を看板にすることで効率的に個人崇拝を確立することができた。
次に手を付けたのはセレマだった。セレマは当時の一神教社会におけるタブーを公然と切って捨てたこと、宗教的実践で得られた体験への懐疑主義、「倫理」が存在しないといった特異な点がある。何より神秘主義者アレイスター・クロウリーの「Do what thou wilt shall be the whole of the Law(汝の意志するところを行え、それが汝の法とならん)」という発言に見られる通り、すべてにおいて自分の意志する(死を含めた)行為をせよ、とする思想はサンの思想と非常に類似する。僕はセレマにおける宗教的な部分(神々への言及)やキリスト教社会を前提とした部分、魔術など儀式的な部分を切除し、純粋な理論に限定して借り受けることでこれをベースとしたが、あくまでベースであってサニズムの全てを表すわけではないので注意が必要だ。
さらに、僕はサンの哲学の中に快楽主義を見出した。ここで言う快楽主義とは一般にイメージされる酒池肉林ではなく、エピクロス派のそれである。サンは一時的な享楽に惑わされるのではなく、全体として心の平静を保つことを希求していた。際限のない上昇志向を拒絶する態度に見え隠れした「諦め」の感情は仏教のそれに通じるかもしれない。上記個人崇拝とセレマの理論部分にこれをブレンドすることで、独自の理論「サニズム」が形成された。僕と協力者はこれを第二章にある通りDiscordサーバー内で流布し、定着させることに成功したのである。

第三章 保護

これもかなり頭を悩ませる遺言だった。というより現在進行形で悩んでいる。『あいつら守ってやれよ』じゃないんだよ。これに関して、僕はまず定義を明確化した。口ぶりから察するにDiscordサーバーのメンバーだ。では「守る」とは何か?……わからん。聞きそびれた。大失態である。ということで僕の考える「守護」を実行することに決めた。メンバー同士のトラブルを仲裁し、頼み事を受け、悩みを聞いて解決案を提示する。しかしアクティブ数十人のサーバーとなるとこれがなかなか難しく、努力はしたが守り切れずに3人死なせている。力不足です。精進します。
ところで「あいつら」には付き合いの長い相棒、最高の支援者、最初期から参加していた趣味友達や敵対者もおそらく含意されているので、困ったら遺言振りかざしてどんどん頼ってほしい。僕にできる範囲で。

終章

書くことがなくなったので本日はここで終えることにする。意図せず苦労話ばかりになってしまったが、遺言の預け先に選ばれたことは非常に嬉しく思っている。実のところサンの思想から考えれば遺言を預けた意図は「それが達成されることを期待しながら死ぬと気分がいい」というもので、本人としては死後に達成されようがされまいが気にするところではないだろう。サンは「達成を期待しながら死ぬ」ために最も都合のよい方法、つまり最も達成率の高い方法を選んだだけだ。では最も達成率の高い方法とは何だろうか。上記を知った上でなお愚直に達成しようとする人物に遺言を預けること。そういうことなので、僕らの自己満足にもう少しお付き合いいただけると幸いです。