見出し画像

母を看取った話

今回は不動産の話ではありません。ものすごく個人的な話です。

2年前、2018年の春に母が68歳で亡くなりました。1年ちょっとの闘病生活、もう少しで誕生日を迎える5月のことでした。

「お母さん、胃の調子が悪くて病院に行っているんだよ」
2016年の年末に父からそう聞いたとき、少し嫌な予感がしました。
というのも母の父、私にとっては祖父を胃がんで、また母の姉、私にとっては伯母を大腸がんで亡くしています。また母も昔から胃が弱く、胃潰瘍で入院したこともあったので、何かあったら早めに病院に行くように口酸っぱく言っていたのですが、「大丈夫、お母さんはここ数年風邪一つ引かないんだから!」と言って病院に行きたがらないことが常だったからです。その母が自分から病院に行くのは余程じゃないかと直感的に思いました。

それから紆余曲折あり、最終的には地元の総合病院でステージⅢの胃がんと診断され開腹手術を受けましたが、当初の予想より一段悪く、すでにステージⅣ、腹膜播種を起こしており手の施しようがない状態でした。余命は6か月、もって一年と診断されました。
父の希望で母にはがんであることは伝えるけれども余命は伝えない、ということになり、間もなく抗がん剤治療が始まりました。

このころ覚えているのは、朝目が覚めると同時に、母はあと一年くらいでこの世からいなくなってしまう…来年の今頃はどうなっているかわからない…と落ち込み涙ぐむ日々。息子の寝顔を見ながら、これは夢じゃないかと何度も思っていました。
また同じような状況の方のブログや体験記を読み漁りましたが、胃がんでステージ4と呼ばれる状態の場合、完治した方はほぼおらず、闘病生活をつづったブログが途中で交信が途絶えているのを見て、胸を痛めていました。

一人娘である私に何ができるだろうと考え続けて出した結論は、唯一の孫である息子と母をできる限り会わせる事でした。実家は飛行機の距離にあるため、通常であれば年に2,3回帰ればいいほうでしたが、月に最低2回、実家に帰る生活をしていました。

約一年ほど穏やかな日々が続きました。
母がやりたいといった民間療法と抗がん剤治療を併用していましたが、見た目には進行が止まったんじゃないかと錯覚するほどとても元気に見えた母。前々から行きたがっていたところへ友人と旅行をし、息子に会いにこちらへ来たり、父と休みのたびに好きだった花を見に行って。料理を作るのも好きだったのですが、抗がん剤の影響で味が分からないといいつつ、私が帰ると毎回手料理でもてなしてくれました。

余命宣告から約一年、2018年桜の季節をちょうど迎えたころ、急に母の体調が悪くなり入院することになりました。いつか来ると思っていたからか、妙に冷静だったのを覚えています。
それからは週末のたび地元に通い、父と交代で病院に泊まり込みをしていました。どんどん食べられなくなり、鎮痛剤の影響で会話があまり成立せず、記憶があいまいになっていく母。3週間ほど入院した後、もうできる治療がなくなりホスピスに転院しました。私も腹を決め、会社に長期休暇を申し出て長期間自宅を離れ、病院に付き添うことにしました。

ホスピスに転院する前後は見ていてとても辛そうだったので、痛みや辛さを最大限取るように鎮痛剤を調整してもらいました。その影響もあってずっとうつらうつらしている状態でしたが、時折どこかに行かなくてはと思うようで、ベットから降りようとするので中々目が離せず、細切れにしか眠れない日々が続きました。
そんな中、夫が息子を連れて行こうかと提案してくれました。これが最後かもしれない、でも母はこの姿を見せたいだろうかと、私は息子と会わせることをためらっていましたが、夫が何も言わず飛行機で来てくれたこと、今でも感謝しています。私たちが話しかけてもほとんど反応がありませんでしたが、息子が来た時は笑顔になってくれました。
それからほどなくして意識が戻らなくなり、1週間後に母は旅立ちました。私、父、息子と夫、古くからの友達や親せきに見送られ、にぎやかな最期でした。

母の看取りを終えて…
いつかは来ると思っていましたが早すぎました。まだ60歳代、せめて息子の入学まで生きていてほしかった。
でもお葬式まで終えて飛行機に乗った時、本当にほっとしたのを覚えています。もう母は病気で苦しむこともない、私も自分の生活に戻れる。肩の荷が下りるとはこういうことかと。
現実は一人残された父の生活の心配が当面続くのですが、またそれは別の機会にでも。

母が亡くなって2年経ちますが、大学時代からずっと離れて住んでいたので、今でもどこかで母は元気にしているような気がしてなりません。町で母と同じ年代の人を見ると、母はもういないというかすかな胸の痛みと、あなたは元気で長生きしてくださいね、とそっと遠くから思います。

なかなか自分の中で考えをまとめることができませんでしたが、2年たってやっと書くことができました。ここまでお読み下さりありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?