【第3回】 三島由紀夫にとっての「建軍の本義」と『文化防衛論』

 こんにちは。法学部3年の奔馬(@Restoration2700)と申します。外交・安全保障と明治~昭和の維新運動史を学んでおり、「國策」研として日本を良くするための展望を少しでも摑みたいと思っています。

 さて第3回は、私が学校時代を通じて愛読し、その思想に最も関心を抱いてきた作家・三島由紀夫について書きたいと思います。三島由紀夫といえば、『仮面の告白』『金閣寺』といった文学作品や、文学に関心がなくても、自衛隊市ヶ谷駐屯地で決起をよびかけて自決した彼の最期はご存じの方も多いのではないでしょうか。また今年春には、三島と全共闘運動に燃える東大生との討論を描いた映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』が公開されましたが、映画をご覧になればわかる通り、50年を経た今でも、彼の思想と行動は様々な論者の興味を引きつけています。

 周知の通り、三島由紀夫は世界的に知られた文学者であり、かつ戦後日本の右翼運動に大きな影響を与えた思想家ですが、今回は後者の思想家としての側面から見ていきたいと思います。今回も、最後までお付き合いいただければ幸いです。

・三島由紀夫の生涯とその思想的系譜

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出典:Wikipedia

三島 由紀夫(みしま ゆきお、本名:平岡 公威〈ひらおか きみたけ〉、1925年〈大正14年〉1月14日 - 1970年〈昭和45年〉11月25日)は、日本の小説家・劇作家・随筆家・評論家・政治活動家・皇国主義者。…戦後の日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家である。…晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。1970年(昭和45年)11月25日、楯の会隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)を訪れ東部方面総監を監禁。バルコニーでクーデターを促す演説をしたのち、割腹自殺を遂げた。この一件は社会に大きな衝撃を与え、新右翼が生まれるなど、国内の政治運動や文学界に大きな影響を与えた。(Wikipedia より)

 概説として、彼の生涯はこれが最も簡潔でわかりやすいものとなっています。その晩年の傾向から彼は右翼といわれますが、事実、彼は16歳で『花ざかりの森』を書いて文壇に登場した頃から、戦中の日本浪漫派の影響を受けていました。日本浪漫派とは、保田輿重郎を中心として、西洋近代やそれを輸入した日本近代を克服し、古代の日本精神へ回帰することを説いた文学的思潮です。また、三島は学習院時代から蓮田善明や清水文雄など国学者の指導を受けており、それが彼の日本古典の素養や思想形成に深く関わったといわれています。

 その後、三島は東大法学部を卒業し、大蔵省への入省と退職を経て文学者として成功しますが、昭和40年代には次第に政治的傾向を強めていきます。この時期までに書いた思想的作品としては『憂国』や『英霊の聲』、評論としては『文化防衛論』『革命哲学としての陽明学』など多くが挙げられます。そして先の解説の通り、自衛隊への体験入隊や「楯の会」結成を通じて100人の学生を指導し、最後は楯の会隊員4人を率いて市ヶ谷駐屯地に突入、森田必勝とともに自決しました。

 三島の自決は右翼・左翼の双方に影響を与え、特に右派陣営に対しては、反共産主義・親米・日米安保支持といった体制に従順なこれまでの右翼に飽き足らない「新右翼」の台頭を促しました。新右翼とは、占領下で制定された憲法と日米安保条約による戦後日本の体制をヤルタ・ポツダム体制と名づけ、世界大戦の戦勝国としての米ソの世界支配やその下での日米関係の打破を目指す昭和40年代以降の思想潮流です(野村秋介、一水会、統一戦線義勇軍など)。つまり、戦前の日本浪漫派が彼の文学や思想に影響を与え、さらに彼の行動が右派運動に新たな火をつけたのです。したがって、三島由紀夫の思想は孤立したものではなく、そこには戦前の日本浪漫派と戦後の新右翼の登場との関連を見出すことができます。

・三島にとっての日本を守ることの意義

 さて、下手な概説ばかりでは面白くないので、ここからは三島がいかにして思想的に戦後社会と対峙したかを述べたいと思います。

 よく知られる通り、三島は晩年には戦後の平和主義の偽善性を指摘し、最後は憲法改正による国軍の確立を訴えて自決しました。何より彼が嫌ったのは「生命の安全さえ確保されるならば、それ以外の価値はどうでも良い」という発想であり、この発想によって守るべき価値も、通すべき筋も失われたことを嘆いたのです。「憲法の私生児であった自衛隊は『護憲の軍隊』として認知された」ことで「自らを否定するものを守る」ことになった戦後憲法下の自衛隊のあり方は、三島にはそのような戦後日本の精神的頽廃の表れだと映りました。

 それでは日本の軍隊が生命をかけて守るべき価値とは何なのか?三島はこれに対し、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統」だと答えています。日本の建軍の本義はこれ以外にはないと三島は自衛隊に訴えたのですが、問題はそのような答えが出てくるまでの思考の過程です。その論理的説明が最もよく表れている著作が彼の『文化防衛論』なのですが、この論文の内容の一部を要約すると次のようになります。

①文化とは、単に博物館で展示される作品のように、標本として保存できる静止的な存在ではない。文化とは、日本であれば日本の文学・芸術作品だけでなく、特攻隊の遺書や華道、茶道や武道の型など、日本人の行動や行動様式のすべてを包含する生きた動態物である。

②特に日本文化には、20年ごとに造営され、いつも新たに建てられる伊勢神宮がオリジナルとされるように、オリジナルとコピーの区別が存在しない。それは日本の造形美術が木と紙という消失しやすい材質から作られてきたことも関係する。

③かくして創られる日本文化は、それ自体が集合的な、自由な創造の主体であって、文化の「型」そのものが、個人である創造的主体の自由な活動の原動力となる。したがって文化を守るならば、その「守る」行為の主体にも「守られる」対象と同一化する可能性がなければならない。文化を守るとは、そのために自己を放棄することで守る行為を創造することであり、創造することと守ることは一致する(以上より、再帰性、全体性と主体性が文化の特質である)。

④②の式年遷宮における伊勢神宮のように、代々の天皇は大嘗祭、新嘗祭によって常にオリジナルの原初天皇と同一化してきた。また歌集のように民衆から宮廷まで、あらゆる階層の和歌は天皇によって統括され、さらに民衆文化は宮廷文化の模倣として発展してきた。つまり日本文化は、天皇を美的価値の源泉として発展してきた。

⑤したがって③④を踏まえれば、日本文化を守るためには守る行為の主体も、創造される文化の一要素として天皇と結びつく必要がある。そのために日本の軍隊は、天皇の栄誉大権によって勲章を賜り、天皇が軍の儀仗を受け、聯隊旗も直接下賜されなければならない。

 つまり三島にとって、天皇と日本文化、そして国防の意義は切り離せないものであり、日本を守るとはただちに「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことだとされました。そしてそのためには、日本の軍隊自身が天皇との結びつきを通して日本を体現しなければならないのです。

 そして日本を守るために戦うとは、自身が日本と一体化することだとすれば、その日本的表現には銃弾に向かう日本刀、特攻、自刃など様々な手段が挙げられます。日本刀のみで政府軍に立ち向かった神風連の志士や、戦闘機一機で敵艦に突入した特攻隊。そして「米兵が目の前で日本人を殺したらどうするか」という三島の問いに対し、「米兵を殺し、自分はその場で自刃する」と答えた若者の発想は、こうした戦いの延長に位置づけることができます。三島が『奔馬』で神風連の乱を描き、『英霊の聲』で青年将校に続いて特攻兵の霊を登場させた点にも、こうした戦いを評価する三島の思想が表れているといえます。

 三島によれば、明治政府は「西欧化による西欧に対する勝利」を目指したことから、近代日本の戦争は「西欧的な戦争を戦うことによって西欧に打ち勝つという固定観念に向かって進んで、第二次大戦の破局に際会した」とされます。一方のアジアでは「アジア独特の思考によりベトナムや中共で西欧化に対するしたたかな抵抗の作戦を開始した」ことが評価され、日本もこうした意味での抵抗をすべきだと三島はいいます(『革命哲学としての陽明学』)。そして他の個所では、三島は日本の戦争の中で十分に日本文化の土壌に立って戦ったわずかな例として特攻隊を挙げています。

・近代国家の論理と文化概念の乖離
 しかし、そうした例外を許しながらも、明治憲法体制は文化と国家の関係全般においてもその近代国家の論理によって日本の文化概念(としての天皇)を犠牲にしたとされます。『文化防衛論』ではこのことが次のように述べられています。

「『みやび』は、宮廷の文化的精華であり、それへのあこがれであったが、非常の時には『みやび』はテロリズムの形態をさえとった。すなわち、文化概念としての天皇は、国家権力と秩序の側だけにあるのみではなく、無秩序の側へも手をさしのべていたのである。(中略)孝明天皇の大御心に応えて起った桜田門の変の義士たちは、『一筋のみやび』を実行したのであって、天皇のための蹶起は、文化様式に背反せぬ限り、容認されるべきであったが、西欧的立憲君主政体に固執した昭和の天皇制は、二・二六事件の『みやび』を理解する力を喪っていた。
 明治憲法による天皇制は、祭政一致を標榜することによって、時間的連続性を充たしたが、政治的無秩序を招来する危険のある空間的連続性には関わらなかった。すなわち言論の自由には関わりなかったのである。」

 こうした三島の天皇観は、彼と親しかった政治学者である橋川文三から次の指摘を受けています。すなわち、三島のいう「文化的天皇」は幕末の国学者の天皇観に近く、その本質は「現実の政治権力からは全く疎外されながら、かえってすべての政治秩序に対する批判原理となりえているような」神秘的存在として天皇統治の理想を捉えていることだということです(橋川文三『美の論理と政治の論理』)。

 しかし、このような国学者の理想はその非現実性のため、明治維新とともに廃れていきました。以後の明治国家が「政治機構の醇化によって、文化的機能を捨象して行った」とする三島の批判は、維新期国学者の明治政府批判にもつながります。橋川の指摘するように、政治に裏切られた「国学的心情主義」が神風連や西郷隆盛の一派、さらには二・二六事件の青年将校にまで継承されているとすれば、三島の思想は国学を奉じた尊皇攘夷派や神風連、西郷党以来の系譜と同じ文脈で評価することができるのです。

・おわりに―三島にとっての天皇と忠義
 最後に、天皇に対する「忠義」についての三島の見方を紹介します。先の批評で橋川は「文化的天皇」復活の方法として天皇の軍に対する栄誉大権の復活を主張する三島に対し、次の疑問を投げかけました。第一に、近代国家の論理と美的総覧者としての天皇の特質は最初から相容れないものを含んでいるということ、第二に、そのような近代国家で文化概念たる天皇を軍との関係で確立しようとしても、その現実の形態は明治~昭和の歴史に見られるような「天皇の政治化」以外のものではありえない、ということです。
 
 これに対する三島の返答は、彼にとっての天皇と忠義たるものの本質の一端を示しています。彼は橋川のこの問いに対し、「正にこの二点こそ、私ではなくて、天皇その御方が、不断に問われてきた論理的矛盾」ではないかと答えていますが、これは三島が天皇に要求していることの過酷な一面を表しています。

 すでに『英霊の聲』で三島は、二・二六事件や、戦後のいわゆる「人間宣言」における昭和天皇の態度に対し、三島は青年将校の至誠を見捨て、神なる天皇のためにこそ皇軍として散った英霊を見捨てたと非難していました。生前の三島はこの記述により、いわゆる右翼からは不敬と批判され、三島の右翼的言動も「作家のお遊び」、楯の会も「オモチャの兵隊」として馬鹿にされるなど(鈴木邦男『右翼は言論の敵か』)既存の運動形態としての右翼とは距離もあったのです。三島にとっての忠義とは「自分の手が火傷をするほど熱い飯を作って…御前に捧げること」(『奔馬』)であり、それは陛下の大御心とは無関係に「過酷な要求」をすることでもありました。このような三島にとっての忠義の本質を最もよく表したのが、彼が福田恆存(第1回記事参照)との対談で語った次の言葉です。

「ぼくは天皇には過酷な要求するね。それは、戦争が負けて人間宣言をされたあと、日本国民としては天皇を無視するといふことは、ある意味で天皇に対する愛情だつたんだよ。非常に個人的な愛情だつたんだ。ぼくは、さういふ個人的な愛情といふものぢやないんだ。どうしても、かうして行かなければならない。それが一番過酷な忠義だと思ふ。」

 それではまた、次回も楽しみにお待ちください。

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