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逆転させて考える。

少し前に友人たちと食事をした時、映画『マッドマックス』の新作の話になった。私自身は、爆音上映で話題になった前作も、これまでのヒットシリーズも観てないのだが、ある理由で、観なくては、と思っている作品である。

その理由は、タイトル絵の書籍『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か』の中で、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』が、ジェンダー格差をマジョリティ側にいる人間に理解させることを狙った作品として取り上げられていたからである。

この本を読んだのはもう2年ほど前で、しかも映画も結局は観ておらず、しばらく忘れていたのをこの日の食事会で思い出した。友人に聞くと、そのとおりだと言う。

この本を手に取ったのは、とある課題にぶつかっており、男性側の心理を知りたいと思ったからである。行為そのものを肯定する気はまったくないが、批判や否定をするだけでは問題は解決されないので、なぜそのような行為をしてしまうのか、なぜそのような考えになってしまうのかを知りたいと思ったのだ。

他にも5冊ほど関連書籍を読み、これらの本から得た知識によって、ある程度、私の考えはアップデートされたと感ていた。ジェンダーにおける非対称性を認識したマジョリティ男性当人は、どこに身を置けば良いのかを思い悩むという問題提起は、この問題の複雑さを想像させた。理解したとまではいかないが、「事情はわかった」という感じである。

そしてその後、『TAR』という映画を観た。ケイト・ブランシェットが、女性でありながらベルリンフィルハーモニーの主席指揮者の地位を得た、リディア・ターを演じた映画だ。下調べもせず、なんとなく、「歴史と文化の積み重ねの象徴のような白人男性優位社会の中で、いかにしてターがのし上がっていくか」を描いたものだと勘違いして観に行った。

実力を認められ、客演ではなく正式な指揮者に任命されるものの、古臭い男たちに足を引っ張られ、嫌がらせを受けながらもしたたかにトップオブトップに君臨し続けるイメージだ。

だから1回目を観た時、あまりにも想像と違っていることに途中で気づくまで、前半の、重要な伏線となる描写をきちんと掬い取れなかった。

そして最後まで観ても、ターに対する自分の感情の正体が分からず、短い劇場公開中に3日と空けず、再度観に行った。

二度目は前提がわかっているので戸惑わない。ターは、ケイト・ブランシェットがいくら素敵でも、自身の好みの奏者や若手指揮者を贔屓にしたり、自分の要求(しかも性的関係の強要)に従わないとわかるや、人事権を駆使して立場を失わせたり、地位を利用して他の組織にその女性の冷遇を提案したり、セクハラとパワハラの、クソヤローだった。

ただ、ケイト・ブランシェットは美しかった。凛々しくて、堂々としていて、格好良かった。あんなにゲスなことをしているにも関わらず、私は、大した嫌悪感は抱かなかった。

それは2度目の鑑賞後も変わらなかった。

そのことに私はショックを受ける。

あれが男性指揮者だったら?

70代の白人男性指揮者、まさしく、マジョリティ属性だったら?

その男性指揮者が若い女性指揮者にポジションを約束して性的関係を強要する。オーディションを受けに来た美しい女性奏者を衝動的に合格にする。一緒に暮らす女性を蔑ろにし、傷つけて、それでも若い女性に執着し、周囲の人間に見放され、告発され、社会からも弾劾される。才能と名声は壊れ、落ちぶれていく。

これらのシーンを男性が演じていたとしたら、嫌悪感で観ていられずに、途中で席を立ったかもしれない。ところが、そんな感情は浮かばなかった。やってることは同じクソなのに。

ということは、私は女性に甘く、男性に厳しいというバイアスがあるということだ。

このモヤモヤした自分の中の考えは、まだ、しっかり消化できていない。自分には偏った見方や発言をしてしまう土壌があるということだろう。このことを、自覚的に捉えなければいけない、と思っている。

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