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6月の聖書タイム「神の囁き」

by 山形優子フットマン

山形優子フットマンの執筆・翻訳 by 「いのちのことば社
新刊「季節を彩るこころの食卓 ― 英国伝統の家庭料理レシピ
翻訳本:
マイケル・チャン勝利の秘訣」マイク・ヨーキー著
コロナウィルス禍の世界で、神はどこにいるのか」ジョン・C・レノックス著
とっても うれしいイースター」T・ソーンボロー原作
おこりんぼうのヨナ」T・ソーンボロー原作

朝にはどうか、聞かせてください あなたの慈しみについて。あなたにわたしは依り頼みます。行くべき道を教えてください。あなたに、わたしの魂は憧れているのです。」
ーーー詩篇143:8

冒頭の聖句、愛する人への語りかけとも読めませんか?筆者はダビデ王、詩の行間には神に対するダビデの親愛の情が溢れています。毎朝一番に「おはよう」の挨拶を神に心込めて言ったなら、きっと素敵な1日を過ごせるでしょう。でも、大抵の人たちは「朝」というベルトコンベアに飛び乗るかのように、その日に突入して行きます。起きたら朝食を急いで食べ、子供を学校に送り、自分は通勤。日課に追われる毎日のはじまりです。中には早朝祈祷会に出たり夫婦で聖書を読んだりする方たちもいますが、「朝、神様に時間なんか作れない」と言う方が大勢。

朝にはどうか、聞かせてください あなたの慈しみについて。」とありますが、ダビデが言う慈しみとはなんでしょうか?英語では”loveingkindness in the morning”で、愛に溢れた神の親切という意味です。そんな恵を一日の始めに聞かせていただけるなんて、いくら忙しくても見過ごすのは、もったいない。でも、「だから無理しても是非、早朝祈祷会へ」とは言いません。

大切なのは、ダビデの「朝にはどうか聞かせてください」というくだり。ダビデが「聞かせて」と言うように、人には主の声が聞こえるという点です。神の声は、あなたの耳には実際音として届かないかもしれません。けれども、あなたの魂には耳があり、その耳には神の声を察知する能力があります。それにはまず、あなた自身が自分の魂の、声や叫びに耳を傾ける必要があります。最も、次から次へと目まぐるしく動いていたら、この世の日常生活に溺れ、自分に魂があること、ましてやその魂が神の声を察知できるなどとは思いもよらないかもしれません。

詩篇46:10には「静まって 私こそ神であることを知れ」と書かれています。この箇所は英語で”Be still and know I am the Lord.”です。ではなぜ、”Be still (静まれ)”なのでしょうか?旧約聖書の偉大なる預言者エリヤが主の声を聞いた箇所を拾ってみました。

主は、『そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい』と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出てきて洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。『エリヤよ、ここで何をしているのか。』」ーーー列王記上19:11~13

「火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」とありますね。そうです。主の声は、ささやくような小声、ですから「静まらないと聞こえない」のです。静まるのを妨害するのは、あなた自身です。まずは自分の大声をやめなければ始まりません。自分中心に展開してばかりでは何も聞こえなくなります。大騒ぎし、動き回っていたら、やがては自分を見失い、自分の魂の存在を無視するようになり、果てや神を見失います。

旧約聖書サムエル記上3章には、年老いた祭司エリに仕える少年サムエルが主に呼ばれた箇所が記載されています。小さなサムエルが寝ると、誰かが彼の名を呼びます。少年は祭司エリに呼ばれたと思い、エリの部屋に行き「ここにいます」と答えますが、エリは「わたしは呼んでいない」と言います。そして名前を呼ばれたサムエルがエリのもとに行くこと3度。とうとうエリは「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕(しもべ)は聞いております』と言いなさい。」と少年に言います。4度目にサムエルが暗闇の中で寝床に着くと、主は少年の名を呼びます。サムエルはエリに言われた通り「どうぞお話しください。僕(しもべ)は聞いております。」と言いました。すると主は話し始めました。夜のしじまをぬって少年に語られた主の声の音量については特に記載されていませんが、眠りにつこうとする子供への語りかけは小声だったでしょう。

では、どうして主は小声で語るのでしょうか?それは、あなたと主との語り合いがプライベートなので、大声で話す必要がないからです。加えて、主は独り言のようには語りません。サムエルが返事をし、聞いているのを確かめてから語り出しました。主は語られる言葉を、相手にしっかりとキャッチしてもらいたいのです。つまり、神は人との「対話」を望んでおられます。主との対話方法とは「祈り」ですが、マタイによる福音書6:6には「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」とあります。プライベート・スペースでの祈りを、私たちは神への一方通行と思いがちですが、神は私たちの祈りを一言も漏らさずに耳を傾けてくださいます。それが叶うかどうかは神の御心次第、自分の思い通りにならないと「祈りがきかれない」と不満を持つのは自然ですが、その不満さえ神にもって行くことができます。

また、主が小声で囁かれるのは私たちが聞くに耐える音量をご存知だからでしょう。疲れ果て弱った大預言者エリヤや、幼い少年サムエルに対して神が配慮なさったのと同様に、私たち小さい者が恐れないよう音量調節をしてくださいます。それだけではありません。実は神が語られる時は、あなたのすぐ側にいらっしゃるので、小声なのです。

この私も、何度か主の小声を聞いたことがありますが、その都度、主は本当に身近におられました。中でも「あなたの罪は許された。行って主の御名を述べ伝えよ」は、2度聞きました。私の右耳のすぐ側で語られた言葉でしたが、その時、私は思わず跪き「アーメン」と応えました。数年前、私は大病を煩い医者から「6ヶ月の命」と宣告されました。その時、主は再び私のすぐ耳元で、か細い声でこう言われました。「私が癒す」、「I will heal you.」と。その御言葉どおり私は回復し、周囲はびっくりです。主は誠実なお方、こんな不信仰な私にまでも誠実を尽くしてくださいます。

ところで神の御声は本当は大きいようです。雷オヤジ顔負けで、全地に轟くほど大きいのです。ヨハネの黙示録1:14~15には「その頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き、声は大水のとどろきのようであった」とあります

冒頭聖句をダビデは「行くべき道を教えてください。あなたに、わたしの魂は憧れているのです。」と結びます。ダビデは1日のはじめに、自分がどう歩んだら良いのか主にガイダンスを乞い、その上で「あなたに、わたしの魂は憧れているのです」と言っています。彼は自分の中の魂の声を敏感に察知し、自分の魂が主を切に求めるのを知っており、主に向かって積極的に対話を望み、主の御前に進み出ています。繰り返しますが人は自分の魂に耳を傾ける必要があります。何故なら、あなたの魂は実は創造の時から主を仰ぐように作られているからです。そうです。私の深いところにある私の神秘的な魂は、もともと主に憧れを抱き、主を仰ぐように作られたようです。

それなら、なぜ人はもっと前向きに主と対話しないのでしょう?神があなたや私と、深い関係を育てたいと願っているのに、私たちが即、応じないのは何故でしょう?答えは「人は神から隠れ、忙しく自分なりに暮らしたいから」です。これは創世の時代より、人がアダムとエバから継承してきたDNAのせいです。以下の聖句を読みましょう。神が食べてはいけないと言った園の中央にある木の実を二人が食べた直後の描写です。

「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』」ーーー創世記3:8~9


人が無意識のうちに神から隠れようとするのは、罪の意識からです。それでも、「どこにいるのか」と、神のラブコールは弛まなく続き、とうとう独り子キリストの命の犠牲を払ってまで、私たちのために楽園への帰り道を作ってくださいました。主は、あなたが、私が、ありのままの姿をすっかりと現し「おはよう、ただいま」と気持ちよく楽園に戻って来るのを待ち侘びておられます。創造主である神の愛の表現でもある「被造物」は今、再生を迫られています。私たち人間サイドからも家路を辿る必要があるのです。

「岩の裂け目、崖の穴にひそむわたしの鳩よ

姿を見せ、声を聞かせておくれ。

お前の声は快く、

お前の姿は愛らしい。」ーーー雅歌2:14

上はダビデ王の息子ソロモン王による雅歌からの引用で、鳩は、あなた。鳩の姿を見たいと望むのは神です。静まって、この世のしがらみという隠れ蓑(みの)を捨て、神の御前に進み出ましょう。神は「お前の姿は愛らしい」と言ってくださいます。神の独り子キリストが十字架上で私たちの罪を担ってくださったので、もう隠れる必要はありません。主を仰げば、あなたはほら、愛のオアシスの只中にいます。湧き出る命の泉から両手で水をすくい、乾いた喉を潤そうではありませんか。

あなたたちは喜びのうちに救いの泉から水を汲む。」ーーーイザヤ書12:3


●7月と8月の聖書タイムは夏休みのため、お休みとなります。
また秋からよろしくお願いします。優子