3月の聖書タイム:「神の子のおきみやげ」


by 山形優子フットマン

山形優子フットマンの執筆・翻訳 by 「いのちのことば社
新刊「季節を彩るこころの食卓 ― 英国伝統の家庭料理レシピ
翻訳本:
マイケル・チャン勝利の秘訣」マイク・ヨーキー著
コロナウィルス禍の世界で、神はどこにいるのか」ジョン・C・レノックス著
とっても うれしいイースター」T・ソーンボロー原作
おこりんぼうのヨナ」T・ソーンボロー原作

わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあたえる。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな、怯えるな。」ーーーヨハネによる福音書14:27

冒頭の聖句はイエス・キリストが十字架にかかる前「今後、色々あるけれども私の平和を残していくから、何があっても大丈夫だよ」と弟子たちを諭された箇所です。この「キリストの平和」は使徒たちだけでなく、現代を生きるわたしたち全員に与えられた「神の子のおきみやげ」。礼拝参加者たちが「主の平和」、「主の平安」あるいは英語で「Peace be with you!」と挨拶を交わしあう習慣の背景にはこの聖句があります。ところでキリストが残して下さった平和とは、ご本人曰く「世が与えるように与えるのではない」ちょっと変わった平和です


まず、世が与える平和とは何?戦争が無い、安定した生活、いわゆる平穏無事な暮らし?大成功し有名になり、お金がたくさんあって左うちわの生活?それはそれで、なかなか魅力的ではありますが、果たして「なにもない人生」なんて、あるでしょうか?果たして左うちわの暮らしの満足度は常に100%でしょうか? 

この世の平和は儚い一時的なもの。「自分は大丈夫、ラッキー」と思っていても、明日どうなるかわかりません。幸か不幸か人は日課や仕事をこなす際、人間の性(さが)には無頓着。自分の知らないところで回転して行く「世の歯車」の一部となり、あるいは逆に不安につき動かされ、毎日をこなす。これは、当たり前の営みですが、誰でも一皮剥せば様々な心配事や不安があると薄々、感じてはいます。

一方、キリストが変わった方法で与えてくださる「平和」とは?この平和は、神の子キリストが十字架上で命をかけて勝ち取ってくださった勝利の故の平和で、こんなことをしてくださったのは後にも先にもキリストだけです。つまり十字架は暗闇に対する神の子の光の勝利。私たちの罪、そして恐れと恐怖を全て、彼の命で相殺してくださいました。キリスト誕生約700年前、既にイザヤは「キリストの平和」を次のように預言しています。

 「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのにわたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは 私たちの背(そむき)のためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちは癒さた。」ーーーイザヤ書53:4~5

そして彼は3日後に復活し、死に打ち勝ったことを世に知らせました。それは命の質が滅びる命から、滅びない命へと変容するという人間の常識を越えた真理の証、これこそ「キリストの平和」の完成です。彼の伝道生活の初め、カナの結婚式の宴会で行った初の奇跡を覚えていますか?宴会の席で葡萄酒が足りなくなった際、水瓶に口切いっぱい入った普通の水を、最高の葡萄酒に変容させた、あの奇跡を。水が芳しい葡萄酒に。(ヨハネによる福音書2章参照)そして醜い十字架の死は素晴らしい復活の命に。つまり世の普通の命が永遠の命に変容。これは彼の地上における伝道生活の締めくくり、いえ、神の子がこの世に降った目的です。人間から見れば後にも先にも前代未聞となるこの奇跡こそが、キリストが「世が与えるように与えるのではない」と言われた独特の「キリストの平和」です。そして「キリストの平和」は永遠の命です。


ですから「キリストの平和」には永遠の命の「強靭さ」があります。この「キリストの平和」さえあれば、何があろうとも、どんな時でも心中は凪(なぎ)です。健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも・・・体が生きていようとも、死に直面しようとも。この鬼に金棒のような「キリストの平和」、どうしたら自分のものにできるでしょうか?


それにはまず、わたしたちの平和を脅かすのは、わたしたち自身の「恐れる気持ち」だと理解しなければなりません。その上で恐れから開放してくれる「キリストの平和」獲得へのシンプルなノウハウを二つご紹介しましょう。マスターすれば「キリストの平和」地帯の永住権が得られます。
これらのノウハウはキリストと共に生きた弟子たちの、恐怖におののく、ぶざまな姿から学べます。有名なのは湖上を歩く神の子キリストを見て狼狽えた弟子たちの様子、マルコによる福音書にある記述です。
夕方になると、(弟子たちを乗せた)舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスは陸地におられた。ところが逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見て怯えたのである。しかし、イエスはすぐに彼らと話し始めて、『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない』と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。」ーーーマルコによる福音書6:47~51


暗闇の中、しかも荒れる湖上を歩く人影が近づいてきたら、誰でも幽霊かと仰天します。ちょっと平家物語を思い出しませんか?人間は自分の常識外のことが起こると驚き恐れます。でも、キリストは「すぐに彼ら(弟子たち)と話し始めて、安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。

キリストは、怖気付いた者に言葉をかけてくださいます。

ノウハウ1は「キリストの言葉に耳を傾ければ安心する」です。つまり主の言葉に触れることが「キリストの平和」を身につける最短距離、あなたの若き日に、時間を作って聖書を読みましょう。

しかし、いくら聖書を読んでも御言葉を信じれないのが信仰の薄いわたしたち。キリストは、それをもご存知です。マタイによる福音書14にも、嵐の湖上の出来事が書かれています。「イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』するとペトロが答えた。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。』イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。そして二人が舟に乗り込むと、風は静まった。』:27~32
キリストは、信仰が薄く躓く者に、すぐ手を伸ばし捕まえてくださいます。
ノウハウ2はキリストに「『助けてください』とSOS発信する」です。祈りの時間を普段から身につけて、主と友達になりましょう。
ペトロの失敗は、キリストから目をそらしたことです。つまり信仰とはキリストを常に見つめようとする姿勢です。人生の航海を往く時、漕ぎ手としての自力や実力、彼方の岸辺、逆風、逆境ばかり気にして、それらに目をやっていては怖れが増すだけ。結果的には余計な苦労が増える一方です。ペトロの素晴らしさは、恐怖に襲われた時、すぐに主の助けを求めた点です。

光の主だけを見つめて歩けば、恐れの影は消え去り安らかです。「それではまるで夢遊病者のよう」と言うかもしれません。そう、キリストだけに視点をあてて歩くのは、初めは不安で、自分の足元を自分で見ようとしがちです。けれども幼児が信頼する親の方向に一歩一歩おぼつかない足を運ぶ姿を想像すればわかるように、信仰の足取りを学習することは可能です。キリストは決して裏切りません。ヨハネによる福音書6:21には次のように書かれています。「そこで彼ら(弟子たち)はイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」キリストを心(舟)に迎え入れると、平安が心全体を支配し、恐怖の手が忍び寄れない安全地帯に達することができます。


キリストが語った「わたし(キリスト)の平和」は、求めるなら誰にでも与えられます。わたしたちはペトロのように溺れそうになること多々ですが、主は常に語りかけ、走り寄って捕まえてくださいます。そして「しっかりしなさい。信仰を強く持ちなさい(しっかり私だけを見つめなさい)」と諭されます。キリストは、あなたに神の光=神の平和を与えたいと願って止みません。あなたを我が子として愛しているからです。
「イエスは言われた。『光は、今しばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。』」ーーーヨハネによる福音書14:35~36


キリストの平和は漠然とした心のバランスとは異なります。その特別な「平和」は具体的な形でタイムリーに、あなたに与えられます。あなたはただ、キリストを見つめ(ノウハウ1)ながら、キリストの名を呼ぶ(ノウハウ2)だけで良いのです。事は自分の思い通りにはならないかもしれません。でも、あなたは平和の渦の中に満ち足りて佇むことはできます。あなたを運ぶのはキリストの霊、あなたの中に既に宿っていて、あなたを優しく抱いてくれます。ハレルヤ、主は生きています。
「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話た。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなた方にすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」ーーーヨハネによる福音書14:25~26