2月の聖書タイム「愛の源に繋がろう」


by 山形優子フットマン

山形優子フットマンの執筆・翻訳 by 「いのちのことば社
新刊「季節を彩るこころの食卓 ― 英国伝統の家庭料理レシピ
翻訳本:
マイケル・チャン勝利の秘訣」マイク・ヨーキー著
コロナウィルス禍の世界で、神はどこにいるのか」ジョン・C・レノックス著
とっても うれしいイースター」T・ソーンボロー原作
おこりんぼうのヨナ」T・ソーンボロー原作

「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」
    ーーーヨハネの手紙1、4:19
2月と言えば14日のバレンタインデー。日本には翌月のホワイトデーまで視野に入れた義理チョコもあるので、早春の巷は賑わいます。英国でも赤バラの価格がこの日だけは釣り上がり、カード交換、レストランではカップルの予約が立て込み、「愛」につけ込む商魂がひときわ目立ちます。でも、コマーシャリズムに乗って財布の紐を緩めても、来年のバレンタインデーには異なる相手と乾杯かも?人間の愛はあてになりません。彼の愛が信じられない?彼女の愛が信じられない?不安のオブラートに包まれた「愛」の味は甘酸っぱい?

冒頭の聖句「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」は、キリストの愛弟子ヨハネがエフェソの諸教会に回覧板として書き送ったものとも言われています。私たちの愛は主観的で、自分の好き嫌い、自分の意思や選択を優先し思いのまま、または自分が愛されるようにと奔放です。そしてあたかも「愛」が自分の中にあるかのように錯覚しますが、ヨハネが指摘するように「神がまずわたしたちを愛してくださった」ことに気づきません。結婚式の披露宴の客人達はカップルに「二人の愛を育んでください」とか「赤い愛の糸で結ばれた二人は生涯寄り添って・・・」等々の祝辞をおくります。けれども祝いの席で「あなた達二人には愛はありません」と言う人がいるでしょうか?祝宴でそんなことを言うのは愚の骨頂、非常識極まりないです。その一方で「二人に愛がない」は、確かに一理あるかもしれません・・・。「ダイヤモンドは永遠」と愛を誓うのは願望で、現実にはなかなかそうはいきません。人間の愛には限界があるからです。

それでは「神がまずわたしたちを愛してくださった」とは、どういうことでしょうか?旧約聖書創世記の冒頭、天地創造のくだりにあるように人間の本当の産みの親は天の父なる神。神は愛し愛し人を造られ、造った「人」を本当に良い出来だと喜びました。これは愛です。つまり創造とは愛の表現です。科学を信奉する現代人は「そんな戯言」と言いますが、ヒトは科学的突然変異で地球上に忽然とあらわれたのでしょうか?あるいは動物が進化してヒトになったのでしょうか?自分の先祖は猿と納得しますか?さらに人間が進化の産物だとしたら今後、人は何に進化するのでしょうか?ダーウィンの進化論はあくまでも仮説、種を収集し、それらを客観的に分類観察したもの、クリーエーション・デザイン(創造デザイン)には触れません(自然史博物館ロンドン監修ダーウィン展より)。ダーウィン自身も後悔したそうですが、彼が提唱した進化論は「科学」という名の「概念的メス」と化し、神と人との絆を切り離しました。現代人は実際は真摯に研究を続ける科学者たちの思いでさえもわからないと言えるかもしれません。

神と人との断絶は、「神の愛」と「人の愛する能力」との乖離拡大です。ヨハネの手紙1、4:16には「神は愛です」とあります。人の魂は愛の源である神から栄養素をいただかないと萎んでいきます。残念なことに神を否定するわたし達の多くは、神と繋がる愛のパイプを自身で外してしまいます。その方が自ら神のようにふるまい、自分中心に全てを支配するに好都合だから。けれども自己中心に自力展開すればするほど愛は干からび、縮み、疲れて息も絶え絶えに。愛の無い家庭、愛の無い社会、教会でさえ一人一人が神の愛の胎盤に繋がらなければ不協和音です。戦争、地球の温暖化、人は悩みばかり抱えこむようになりました。

キリストはヨハネによる福音書13:34で「あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい」と言われました。わざわざ掟と言われたのは私達が「互いに愛しあえない」からです。

「隣人を自分のように愛しなさい」ーーーマタイによる福音書22:39 

「しかしわたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」ーーーマタイによる福音書5:44

「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか」ーーーマタイによる福音書5:46

聖書が語る、これらの素晴らしい「愛」は神の愛(アガペー)、バレンタインの愛のレベルとは次元が異なります。若いカップルたちは口を揃えて「そんなのは人間である自分たちには関係ない。僕たちは愛し合っている」と言い張るでしょう。それも然り。けれども繰り返しますが、悲しいことに人間の愛には限界が。

携帯電話で愛を語り合う二人、どちらかの電源が切れたらどうでしょう、充電しなければ通じなくなります。海外に住む人たちは時折、里帰りして必要な養分を摂取しないと辛くなります。そして愛が枯渇すると人は自己中心になります。人間は弱く脆いもの。ちょうど母親の体内にいる胎児がママと、へその緒で繋がって栄養を吸収するように、私たちも、へその緒を通して愛の源から栄養補給する必要があります。ですから神と再度繋がれば、限界ある人の愛は、おおらかに育ち大きくなり常に充電されるようになります。

そうです。魂にも実家が必要です。キリストは私たちの実家は天にあると教えてくださいます。死後の魂の落ち着き所のことを言っているのではありません。愛するのは生きているうちだからこそ、今すぐにでも魂の実家にたどり着く必要があります。キリストは言います。「心を騒がせるな。神を信じなさい。私の父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなた方のために場所を用意しに行くと言ったであろうか。」ーーーヨハネによる福音書14:1~2

キリストが提供する実家は死後はもちろん、いつでもどんな時でも疲れたら帰れる「生きている間」のお里です。「疲れた者、重荷を負うものは、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」ーーーマタイによる福音11:28

キリストはまた「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」ーーーマタイによる福音書12:50と語ります。キリストこそは実家への道、神の家族が待つ家の門そのもの。キリストに従ったパウロも「私たちの本国は天にあります」とフィリピ信徒への手紙3:20で述べています。この実家は当然、日本人の実家でもあります。

今日、森の中を歩いていたら、木の上方に大きな宿り木がかかっているのを見つけました。ミッスルトウと呼ばれるこの宿り木、英国ではクリスマスになると花市で販売されます。人々は一枝求め、玄関の天井などにつるします。その宿り木の下に立っている人になら、誰でも接吻できるという習慣まであります。クリスマスらしい愛の挨拶の印。けれども宿り木の正体は実は高木にお宿を借りて、その栄養分を横取りする寄生植物です。

考えてみれば私たち人間は、この宿り木のようなもの。神様に魂の栄養分をいただき、初めて主の愛(アガペー)を自分を通して他者とわかち合うことができるからです。寄生植物と言うとネガティブな感じですが、美しい黄緑、小さな玉のような白い実をつけるミッスルトウが、その本来の美しさを発揮できるのは、光と水分を常に繋がっている大木から分けてもらえるからです。人の愛が枯渇したら、神の愛(アガペー)に接続充電しましょう。充電するにはSOSの「祈り」を発信すれば大丈夫。
若い時は誰でも自分を過信します。そして、七転び八起きとばかりに自力で踏ん張るでしょう。しかし8回目に転んだ時、あなたの髪には既に白いものが混じり、跳ねのける力も弱くなっています。そんなあなたを、転んだ子を優しく見つめる親のように、起こすよう促してくださるのは、神の独り子キリストです。そのキリストこそ、わたし達への神の愛の証です。
「神はその独り子を世に賜ったほどに世を愛された」ーーーヨハネによる福音書3:16

13世紀イタリアの聖人アッシジのフランチェスコの有名な愛の祈りの触りを最後に一つ。祈りは「Make me a channel of your peace」、つまり「主よ私をあなたの平和のチャネルにしてください」で始まります。チャネルとは経路、道筋、パイプ。今、あなたが神と自分とのパイプが壊れていると感じたら突貫工事係キリストに連絡(祈り)すればすぐ直してくださいます。パイプが詰まって狭くなっていたら、仲介者キリストが広くしてくださいます。父なる神もキリストも目には見えない天の愛の泉の流れを、私たちが溢れんばかりに受け、また隣人へ流していくことを望みます。「愛」はしがみつくものでも、持っているものでもなく、流れていくものです。その色は真紅のバラの花びら色。私たちの罪を許すため身代わりとなった十字架上のキリストの血潮色です。これほど大きな愛はありませんから安心して、尽きないその流れから引水しませんか?