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5月の聖書タイム:「人の次元を高く超える神の愛」

by 山形優子フットマン

山形優子フットマンの執筆・翻訳 by 「いのちのことば社
新刊「季節を彩るこころの食卓 ― 英国伝統の家庭料理レシピ
翻訳本:
マイケル・チャン勝利の秘訣」マイク・ヨーキー著
コロナウィルス禍の世界で、神はどこにいるのか」ジョン・C・レノックス著
とっても うれしいイースター」T・ソーンボロー原作
おこりんぼうのヨナ」T・ソーンボロー原作

「また、だれも新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」ーーーマルコによる福音書2:22
5月です。先日の賛美の群れ礼拝では、参加者のリクエストにより「屋根より高い鯉のぼり」を皆で歌いました。今月のタイトルは「人の次元を高く超える神の愛」。鯉のぼりよりも高く、白雲よりもさらに高く、大空より広い、神の愛と憐れみを説明することはとてもできません。5月の風を一身に受け、自然の恵を独り占めするかのように大空を豪快に泳ぐ鯉のぼりの家族のように、わたしたちも大きくて深い神の愛の一部となりたいものです。

冒頭の聖句はキリスト自身が、「キリストの救いが来る新しい世(新約時代)とは、掟と律法だけが一人歩きしてしまった旧体制(旧約時代)とは相入れないほどに、喜びと恵が満ちるものとなる」と示唆する箇所です。キリストが十字架で流す血潮を新しいワインに例え、そのニュー・ワインを発酵させるためには古い革袋(律法)だと対応できないが、弾力性ある新しい革袋(信仰)に入れれば、ワインはその革袋がパンパンに膨れ上がるほどに発酵し、芳しい香りと美酒ができあがるーーー古い時代が過ぎ、キリストの愛が全てを司る新約の幕開けはニュー・ワインならぬ、「ニュー・ノーマルのはじまり」。心弾む希望の時代のはじまりです。

新約時代は今も続き、希望があるはずなのに、戦争、飢餓、地球温暖化、物価高など、どこを見てもお先真っ暗の昨今です。あなたの暮らしはどうですか?5月になって、春の人事異動は発動しだし、学生たちは新学期の只中に。あなたはちょっとした変革期に直面していませんか?変わりたくても、身動きが取れない状態?あるいは古い抜け殻から脱皮したものの今後が不安と、とまどっている?自分のニュー・ノーマルに適応できていますか?冒頭聖句のようにニュー・ワインを新しい革袋に入れたでしょうか?古い革袋への愛着が捨てきれないのでは?これからどうなるかがわからない変革期には、じっと現状維持、守りの体制に終始するしかないでしょうか?

じっと耐えるのは楽ではありません。聖書のあちこちにも長年、苦しみに耐え、我慢してきた人々の面々が、紹介されています。12年間、出血が止まらず、医者にかかって財を使い果たしてしまった女、生まれつき目が見えない盲人の男、中風で寝たきりの男、悪霊に取り憑かれた人々ーーー。彼らは、どうしようもない自分の状態から脱出したいと、自から神の子キリストの救いを求めました。心配する親や、見かねた友人たちが、本人をキリストの元へ連れて行った場合も。

キリストは具体的に助けを求める人に応えてくれます。それだけではありません。助けを求めていない人にも自分の方から出向いて出会ってくださいます。神は人が想像する以上に寛容で、あわれみ深い、大きな大きな愛の方。使徒の言行録の3章1~10を読んでみましょう。10節あるので、①~③に分けて見ました。

①3:1~2、ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。
①この男は生まれてから一度も歩いたことがなかったようです。親切な人たちが毎日、彼を「美しい門」まで担いで来たのでしょうか。それとも「施し収入」の一部を、自分を運ぶ人たちに支払っていたかもしれません。この時代、弱者への施しは義務でした。この門を通って神殿で祈る人たちはたくさんいましたから、そこそこの日銭は期待できたはず。物乞いは彼の生業で毎日、神殿の近くにいましたが自力で境内に、ましてや神殿の中に入るのは不可能でした。

②:3~7、彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、

②男はペトロとヨハネを知りませんでした。わたしたちだったら、物乞いされた際、目をそらしたり、見て見ぬふりをするでしょう。驚いたことに「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、『わたしたちを見なさい』と」言いましたあなただって、もし、この男と同じ立場にあったら「見なさい」といわれたからには何かもらえると思うはず。そして二人は「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。」と言いました。

二人が「持っているもの」とはなんでしょう?この箇所は「使徒の言行録」よりの引用、つまりキリストが十字架にかかり、死に打ち勝ち、よみがえり、昇天し、弟子達に聖霊がくだった後のことです。彼らが持っていたのは「聖霊、信仰、ナザレの人イエス・キリストの権威ある名前」でした。この聖書箇所はキリスト昇天後、弟子達による初めての癒しを記したものです。

二人は、この男に「癒して欲しいか」、「歩けるようになりたいか」と問いません。男の方も「なおしてください」と願い出ようとは、夢にも思わなかったようです。それはそうでしょう。男は、この二人に「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と宣言する霊的権威があると知らなかったからです。それに日々、物乞いに明け暮れ、それが男の「ノーマル」でしたから。「歩けたら・・・」という思いさえ、とっくの昔に失っていたかもしれません。「わたしには金や銀はない」と言ったペトロとヨハネでしたが、男の魂が求める「歩けるようになる」を、聖霊によって彼に与えました。彼が期待していたのは、ほんのささやかな「おめぐみ」だったのに、思いがけない大きな恵を受けました。

「主は憐れみ深く、恵に冨み、忍耐強く、慈しみは大きい。」ーーー詩篇103:8

「天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。」ーーー詩篇103:11

では最後③を読みましょう。

③3:8~10、踊り上がって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。

あとは喜びと賛美だけ。男は「二人と一緒に境内に入って行った」とあります。彼は自分の足を駆使し、門から一気に境内に踊り入りました。気が遠くなるほどの長い年月、門の外でいざっていたのに、ペトロとヨハネの二人をじっと見た途端、自在に門を出入りすることが可能になりました。ペトロとヨハネの周りを、3人目の男がぴょんぴょんと笑顔で飛び跳ねる姿を想像してみてください。あなたがそこにいたら、「あ、あれは美しい門に毎日座っていたあの男!歩いている、踊っている・・・・」と息を呑んだことでしょう。こうして男は、思いがけず「キリストの恵、救いの証人」となりました。これが新しい革袋がパンパンに膨らむような喜びです。

ここで一つ、3人がじっと互いに見合った時に見落としてはならない男の仕草があります。「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、『わたしたちを見なさい』と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると」ーーーそうです、「なんだろう、何かもらえるぞ・・・」という、この男のプライドの無さを注視してください。知的でスマートな現代人は「身に着いてしまった物乞いの性から、一体何を学ぼうというのか?」と言うでしょう。でも、この男のように、わたしたちも神に向かって「なんだろう、何かもらえるぞ」と期待したらよいのです。子供が大人に期待するように、受け身になって、もらえる恵に貪欲になってよいのです。

この男が、まさか癒されるとは思わず「小銭をくれるのかな」ぐらいに思ったように、人が抱く期待は本当に小さく、ちまちましています。神の目には人間の欲求次元は低い。神は、わたしたちの低次元をご存知な上で、それをはるかに上回る恵を無尽蔵にくださる方と、この男の話は提示します。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを高く超えている。」イザヤ書55:8~9

悲しいかな、なぜわたしたちの期待度は、低次元なのでしょう?それは、わたしたちが常に保身だからでしょう。危機に陥った時でさえ、病に倒れた時でさえ、自分自身で自分をコントロールしようと頑張るからでしょう。なぜ、自分で自分を解き放つことができないのでしょうか?プライドが邪魔しますか?この男が、素直に「なにかもらえそう」と思ったように、メンツや体裁を捨て、捨身で神の救いを乞うことが肝心です。自分は白紙で良いのです。自分を解き放つのは、それほどに怖いことでしょうか?


あなたが自らの心を神にあけ渡すことは、自身を神に与え尽くすことを意味します。いや実は、自分の創り主に自分をお返しするに過ぎません。その際、良いものばかりではなく、抱える悩みや問題、病までも全て神に委ねることになります。良い自分もよくない自分も、存在の全てを与えきるなら、委ねきれるなら、不思議なことに恵はいや増し、問題や悩みは恵と喜びに変化します。人間にとってプライドを捨てることは、実は勇気ある行動です。神の前にへり下らなければ、与えることはできません。

与えなさい。そうすれば、あなた方にも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれる程に量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」ーーールカによる福音書6:38

福音記者ルカがしたためた使徒の言行録のこの箇所は「現代とは無関係な奇跡話」ではありません。むしろ行間には神の子のあわれみの眼差し、人々が癒される瞬間、人の子と神の子との歩み寄り、天と地が一致する深い喜びがあふれています。苦しむ人たちがそれぞれ率直にキリストの前に訴え出る姿は、人間の正直な生き様を時代を超え、世紀を経て、読む人たちに迫ります。


ところで歩けるようになったこの男のニュー・ノーマルはどんなものだったでしょう?もう物乞ではなくなった彼、無事に一人立ちがきたでしょうか?あの日、あの男がペトロとヨハネに期待して、じっと見つめたように、その後の人生を神を見つめながら過ごしたなら、彼は人生の道筋で、多くの希望の花を咲かせたでしょう。私たちが今、どのような曲がり角にあろうとも、一人一人のニュー・ノーマルは「神を見つめ続ける」に終始すれば順風満帆。それは溢れるばかりの神の恵と、あわれみのうちに生きることのほか、何ものでもありません。

わたしの魂よ、主をたたえよ。

主の御計らい(おんはからい)を何ひとつ忘れてはならない。

主はお前の罪をことごとく赦し

病をすべて癒し

命を墓から贖い出してくださる。

慈しみと憐れみの冠を授け

長らえる限り良いものに満ちたらせ

鷲のような若さを新たにしてくださる。

ーーー詩篇103:2~5