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⛪ まことの光を証しする声 ⛪

2023,12,17  ヨハネ1:6-8 19-28

(勝原洋子「聖書日課」)

*聖書の四つの福音書はいずれも、イエス様が世に現れる前に、洗礼者ヨハネが神から遣わされたことを記しています。

ただ、その記し方について言えば、ヨハネによる福音書は他の福音書と異なっています。例えばマルコによる福音書は洗礼者ヨハネが「荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(1:4)と記しており、マタイ、ルカもだいたい同じです。

*それに対して、ヨハネによる福音書は「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」と記します。救い主が来られたのは、闇の世界に「光」とし来られたのだという驚きに、私たちを招きます。

この「光」は死の世界に現れた「命」(1:4)であり、すべての人が光に照らされて命を得るために、イエス様を指し示す働き人として登場するのがヨハネです。

*彼の仕事はイエス様の紹介です。そのためにはまず、彼は自分に寄せられている誤解を解くことから始めなければなりませんでした。

彼の働きが大きな影響を与え、多くの人々がヨルダン川で彼から洗礼を受けるようになり、ヨハネこそ待ち望んでいた救い主ではないかと考える者が出てきたからです。あわてた宗教指導者のファリサイ人たちが、調査団を送りました。「あなたはどなたですか」。ヨハネの答えは明快です。「わたしはメシアではない」。またエリヤ(マラキ3:22)でも、あの預言者(申命記18:15)でもない、と答えます。

*調査団は戸惑いながら言います。「それではいったいだれなのです」。ヨハネは預言者イザヤの言葉(イザヤ40:2)を用いて答えます。「私は荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」。自分は、救い主が来られるために道を整える使命を受けた者であり、それを証しする「声」にすぎないと認識し、主の証し人一筋に生きたのです。

*またヨハネは自分が洗礼を授けているのは「わたしの後から来られる方」の準備に過ぎず、「わたしはその履物のひもを解く資格もない」と、その方のしもべになる資格さえないと答え、自らの役割をただ淡々と担うのです。私たちは何のために生かされているのでしょう。

祈り:主の証し人の一人にしてください。


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