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書けない

書けない。文字が書けない。私は梶井基次郎が大好きだ。だから彼みたいな文章を書きたいと思う。しかし書けない。彼みたいな文章が書けないだけならばいい。だって私は梶井基次郎じゃないんだから、梶井基次郎みたいな文章がかけるわけがない。問題は私の文章が書けないことだ。
最近、文字が書けない。もう半月ほどなかなか書けず、メモ帳には中途半端な文字の死体が腐敗している。
そもそもみんなは、文章ってどうやって書くんだろうか。「書きたい」と思う瞬間ってどこにあるんだろうか。「書きたい」と思う瞬間って、脳をガンガンに揺さぶらる、あの衝動のことなのか、はたまた桜が散るときみたいに、穏やかに自然に始まるやつなのか。
文章で人を殺したくなるときがある。物騒なことじゃない。私は人を傷つけたくないし、泣かせたくもないし、不幸にしたくない。下品な言葉も使いたくない。でも文章で人を殺したいんだ。なんて形容したらいいかわからない。言葉は難しいし、私に才能はないから、なんて言えばいいのかわからない。
殺したいわけがないんだよ、本当は。私は文章に生かされてきたのだから。でもあの、「書きたい」と思うときは「殺す」から始まる。不幸のたけを、伝えたい思いを、その勢いを私は「殺す!!!」と呼んでいる。本当に殺したいのは自分なのかもしれない。
文章が書けない。もっときれいで美しくて、ガラス細工みたいな文字が書きたい。書きたい。書きたい。でもそれを書くには私の心情があまりにも汚いのだろうか、ずっと思うように文章が書けない。
初めて、梶井基次郎の「檸檬」を読んだときの胸の高鳴りが忘れられない。この世にこんなに美しい文章が存在していたのか!!!!!
形容詞がたい作者の描きたい感情が、描写で補完されていき、読者に感想が委ねられる。その読者の感想も言語にできず、ただただ美しいと思い、胸が高鳴る。
ずっと言葉に首をしめられている。私は、私達は言葉越しにしか世界を見れない。もっと生で世界を見たい。もっと、生の、文章が、私は、書きたいんだよおおおおおおおおおおおおおおお。
「書きたい」と思う時点で、書きたい何かは確かにあるのに、姿が見えず、表し方もわからない。
そんな感情ひとつひとつを、追っかけ回して、追っかけ回してを繰り返す。
怒ってないし、悲しくもないし、嬉しくもないし、楽しくもないときの感情の、名前を誰かつけてくれよ。ああ、でも名前がないからこんなに愉快で美しいのだろうか。人はみな、未知に惹かれるものだから。
書きたい。あれが書きたいのに。
書きたいんだけどさああああああああああ。
あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。
語彙を増やせって話ですね。 〜終〜


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