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希死念慮を持つ人に対する偏見がまだまだ消えない今日この頃。つい最近までスマホすら持っていないような子供ですら有象無象の不特定多数から認知されて、色々な評価の対象になってしまう。その上、自分自身という人間に対する意見だけじゃなくて、希死念慮に関する多種多様な意見すらも受けることになっちゃう。インターネットという荒野の中で、自分とは相反する意見の人間から無機質な、時に攻撃的な意見が飛んでくるのだから怖いに決まっているよね。けれど私は自分の人間性とか、大袈裟に言うと人生にちょっとした目標があって、それは「多種多様な価値観を理解はしなくても、受け入れる姿勢は常に忘れない」ってこと。受容性の高い人間、許容範囲の広い人間でありたい。もちろん、悪意のある意見や暴力的な言葉をかけてくる人間にその考えを適用するつもりはさらさらないけど。ただ、単純に自分の価値観や考えと異なる人間を排除しようだとか攻撃しよとかは思わないだけ。思いたくないだけ。かと言って、全ての意見を理解するように努めるのは難しい。過去の私は自分と相反する意見すら理解したいと思っていたし、それが優しさであり正義とすら思っていた。けれど、ここ最近で分かった。世の中には自分の想定範囲を容易に超えてくる人間がたくさん居て、完全に理解するなんて到底不可能だと。そもそも、他者をカンペキに理解するなんてナンセンスだ。普段、人間はみんなまさしく井の中の蛙で、身の回りを取り巻く人間関係からなる世界というのは凄く凄く、もうそれはそれは狭いもの。 周りの人間というのは自分と似ている価値観や意見を持つ人間が無意識に集まっているものだ思う。リアル、いわゆる日常を生きていればその狭い世界の中でだけ生かされるし、ほとんど自分の理解の域を超えた人間と接触する機会はない。きっと身近にそういう人間を無意識的に排除して、身の回りに置かないようにすることができる。自然と不可視化できる。けれど、インターネットは違う。先回りしてブロックでもしておかない限り、理解の域を超えた赤の他人からの意見を目にせざるを得えない。もちろん先回りしてブロックなどできるはずもないし、敵意はないのにただ反対意見だからといってシャットダウンしてしまうのも個人的に違う気がする。なぜなら反対意見から学ぶことはザラにあるということを友達を通して実感してるから。似た者同士の友達とはいえ、時には意見が食い違うことはあって、そんなときお互いの意見を交わし、話し合うことが私の思考の成長や受容性の向上に繋がってる。そういう機会にもなり得る。だからこそ、反対意見を全部シャットダウンというのは少しもったいないような気もしちゃう。だからと言って、いちいち相反する意見への理解に努めようとすれば、それこそ自分のほうが壊れてしてしまう。ここで私がモットーとしている「理解せず受け入れる」が出てくる。この言葉を端的に表すと「あーそういう意見もあるよね」ってこと。敵意や悪意さえないのならば、私は自分と相反する意見を持つ人間を理解するつもりもないけど、ただただ受け入れたいし、時に受け入れることも必要。もちろん、その意見に敵意や悪意など邪推なものがなければの話なんだけどね。つかれた


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